関内新聞

関内の氏神様、厳島神社の歴史を辿る

源頼朝、由来の神社

今から840年ほど前の治承年中、西暦にすると1177年頃。

源頼朝が、伊豆国土肥杉山(現在の伊豆市土肥)にあった杉山弁財天を、横浜村の洲乾島に遷したのが始まりとのこと。

当時の横浜村は、入海を挟んだ東西に細長い陸続きの半島で、その先端の辺り、現在の北仲通に弁財天が祀られました。洲乾島の表記は、洲閑島や洲干島なども使われますが、今回は厳島神社に伝わる資料の通りに洲乾島としてあります。

この弁財天は、洲乾島に祀られたことにより、現在の羽衣町に遷されるまでは洲乾弁天と呼ばれましたが、土肥から遷された当初は、杉山弁天や、境内に清らかな水の湧く七つの池があったことから清水弁天とも言われていました。

洲乾弁天には、紀元2056年頃(西暦1396年頃)足利氏満が、金紙金泥の般若心経を奉納し、紀元2120年頃(西暦1460年頃)には江戸城を築いた太田道灌が社殿を造営寄進した、なども伝えられています。

そして、江戸時代になると、慶長2年には徳川家光から、社領六石一斗ほどを支給されました。

社領とは、神社の領地のことで、六石一斗ほどの米の収穫がある領地を与えられたということです。

洲乾弁天と呼ばれていた頃

境内の敷地は、現在の北仲通から本町6丁目と弁天通6丁目の辺りまでと広く、総敷地面積は一万二千坪ほど。大鳥居は、現在の弁天町6丁目の辺りにあったようです。

ちなみに、弁天町の名は、洲乾弁天まで一直線の通りだったことに由来しています。

尚、明治4年に、神奈川県庁を起点(県庁の所を1丁目)として町名を置くようになったので、明治4年以前の地図で見ると、本町や弁天町などは1丁目と6丁目が現在とは逆になっています。

洲乾弁天は、広重などの浮世絵にも描かれ、江戸名所絵図にも名を連ねるような、関東地方に名所の一つでした。

洲乾島の先端の尖った砂洲の辺りに社殿があったため、三方向が海に面し、岸辺には数百株の松が植えられていて、潮の満ち引きにより、松の木は海中に浮いているようにも見えました。

夜は漁火に照らされ、緑の松葉越しに見える白い社殿が際立ち、まるで竜宮城のような神秘的な光景だったようです。

正に風光明媚な絶景、今風に言うと、インスタ映えする景色ですね。

境内には茶屋の暖簾や提灯が連なっていて、神奈川方面から小舟に乗って洲乾弁天に詣でることが、江戸っ子の楽しみの一つでもあったそうです。

洲乾弁天は、近隣の人々のみならず、広く信仰を集めていました。

元禄年中になると、別当増徳院の境内に仮殿を造って一部の御神体を移し、そこを「上の宮杉山弁天」と唱え、洲乾弁天は「下の宮清水弁天」とも称していたようです。

そしてお祭りの時は、「上の宮杉山弁天」の御神体を「下の宮清水弁天」に遷して行っていました。

その後、明治地代になると、神仏を一緒に祀ることが禁じられたので、洲乾弁天(下の宮清水弁天)は明治2年に現在の羽衣町に遷され、明治4年には社格(神社としての格式のこと)の制定により

村社(村の鎮守のこと)として名前が厳島神社となりました。

増徳院にあった「上の宮杉山弁天」は元町に遷され、現在の元町厳島神社となりました。

厳島神社として

厳島神社の初代宮司を務めたのは、龍山親祇(たつやま・ちかまさ)氏です。

親祇住職は、ペリーを自宅で接待したことで知られている代官の石川徳右衛門の分家である、名主の石川半右衛門の長男として生まれました。

そして、幼少より文武両道を学び、その才覚が認められ、名字帯刀を許されました。厳島神社の神主の職に就いたのは、わずか16歳の時でした。

羽衣町は沼地であったため、幾度も土を盛って土地を高くするという苦労もあり、又、明治32年8月の横浜市内の大火により、社殿が焼失するという出来事もありました。

大正5年には社殿が再建されましたが、大正12年の関東大震災で倒壊焼失し、大正15年には、仮社殿が再建されました。

昭和になると、昭和20年の横浜大空襲で社殿が焼失してしまいましたが、戦時中は御霊代は伊勢山皇大神宮に遷されていたので、戦災を免れました。

その後、社地が接収となっていましが、昭和31年に接収が解除となり、翌年の昭和32年には社殿が再建され現在に至っています。

厳島神社は、激動の時代を関内と共に超え、今も鎮守として関内の人々、街とともに時を過ごしています。

弁財天信仰は、海上交通、貿易商業、土地の発展などを願うもので、大きな貿易港を抱える横浜市民と縁の深い神様です。

境内の三社稲荷神社は、大田屋源左衛門(大田屋新田の開発者)が江戸浅草の三社稲荷を勧請したもので、祭神は、御年神(みとしのかみ)大市比売神(おおいちひめのかみ)素戔嗚尊(すさのおのみこと)。

他にも、銭洗弁財天も祀られています。銭洗弁財天の手前には、赤い小さな太鼓橋があり、池には金魚・鯉・亀などが生息しています。

生き生きと活気ある関内の街中で、ちょっと一息つきたい時は、厳島神社を訪れるのも良いものですね。

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