まだ正月気分が抜けて居ないのだろうか…。
飲み始めるには、まだ明るさが残る時間だと言うのに、久しぶりに会う仲間との会食が気になり、仕事に身が全く入らない。
一度、意識があっちに向いてしまうと、無理に“それ”を戻そうとしても、満足度と完成度の高い仕事にはならない悪い癖がある。
少し早いが…。
あっちに行ってしまった意識を戻すことなく、このまま街に繰り出してやろう!!
幸い作業の区切りが付いたところ。待ち合わせの時間を考えると、別の新しい作業に着手しても、中途半端なところで切り上げなくてはならなくなってしまうだろう。
なんだかんだと都合の良い言い訳が見つかると、パソコンの電源を切って事務所を出る。
おっと…。
17時の待ち合わせまで、まだ30分以上もある。早い時間からの会食ということで、予約は必要ないだろうと、店は決めていないのだった。
お互い気まぐれな性格。この仲間とのいつもの会食は、その夜の気分に任せて店選びすることが多い。
フライングして、一人お店を決めるのだ。慎重には慎重を期してお店を選んでおかなくてはならない。
何せ、
気に入らないと思ったら、直ぐに河岸を変えてしまう相手だ。
さぁて、どこにするか…。
そうだそうだ。あの店が良い。
関内大通りを駅に向かい、たこ焼き屋の交差点と尾上町の交差点の間の細い道を入ったところに、17時前のこの時間でも開いていて、美味い和食を食べさせてくれる店がある。
今夜の条件には、まさに打ってつけのお店がココ。
愛嬌酒場 えにし
U字になったカウンターに、いつもビッシリと客が座わる。何に魅せられ、この店に来るのか。
それは、それぞれに違う想いの丈があるのだろうが、一度でもこの店に来たことがあれば、この店が持つ他には無い或る物に気が付くというモンだ。
どんなに気まぐれな今宵の仲間も、必ずお気に召すに違いない。
カウンターの他に、テーブル席が2つ。
いつも可愛いランチョンマットが、色鮮やかに出迎えてくれる。日によって変わる、そんな心配りに無意識に足が向いてしまう夜が何度とある。
まだ客もまばらな時間だと、色とりどりの嬉しい心配りの色で、座る席を選んで見るのも楽しみの一つだった。
今宵の気分は、この一枚。
目にも鮮やかな橙色が、これから運ばれてくる素敵な料理たちを引き立ててくれそうだ。それに、昔好きだったスポーツチームのイメージカラーなのが、また少しいいじゃないか。
この街に来て応援するチームが変わったが、今宵の仲間は野球の話を肴に酒を飲むのが好きなヤツだ。
いくら寒い季節だと言っても、仕事終わりの一杯のビールは無くせない。例えそれがワガママに都合の良い理由で、仕事を早めに切り上げて出てきていたとしてもだ。
心の中で呟きながらの一人での、乾杯をもっとおいしくしてくれるのは、よく冷えた生ビールに震えるほどの喉越しを感じた瞬間だ。
ソォーッ…
ニヒルな笑みを口元で表現し、小鼻を膨らませて得意気に雰囲気に浸る。
そして、その瞬間にタイミングを合わせたように始まる、息継ぎという名の“句読点”をどこに打てば良いのかわからなくなってしまう長い妄想に酔いしれ、自らでは終止符を打てないこの時を誰かに止めて欲しいと思うが、その役目のアイツが最近いない。
いい加減、そんな事にも慣れても良いだろうに…。
ほぅ…。
湯葉に、お浸しに、鮮やかなイクラのお通しか。のっけからハイスピードで、テンションを上げてくれる物が出てくる。仲間が現れるまで、今しばらくの時間があるとは言え、先にガッツリとやってしまうと機嫌を損しかねない。
湯葉をチョイチョイっと、イクラをちびちびット、ゆっくりとやっていなくては…。
ムリ♪
一人で乾杯をもっとおいしくしているうえに、のっけからテンションを上げてくれる嬉しいお通しがお出ましとなれば、意思の弱い今宵の意識では立ち向かう気力にもならない。
濃厚な湯葉のクリーミーな味わいのアクセントに、イクラのプチッとした食感。呑み助のハートを鷲掴みにしてくれる。
ハートを鷲掴みにされた呑み助が、次にすることといえば、少し前に来たばっかりだよと演出するために、空きかけたビールのグラスを新しいものに変えること。
空きかけたグラスを観られてしまっては、
なんだ、早々に来て先に始めてやがったのか…。
た、ただ…、
カツオをまとう土佐豆腐に、ほっこり温かダシで更に気持ちが緩んでしまうと、姑息な理由で生ビールのグラスを新しくした作戦も無駄に終わることになりそうだ。
い、いや、待てよ…。
お、お勧めの日本酒をください!
それに…。
ちょいッとな感じの小鉢も!!
ふぅぅ
ま、間に合った。
これで完璧に、今到着したばかりにしか見えんだろう。ちょいと早く着いたから、ちょいと先に始めて待っていたと言えばいい。
後は、してやったりと得意気な表情にならないように気を付ければ良いだけだ…。
女将さん:
無理だと思いますよぉ~。もうすっかり顔も赤いですしねぇ~。
ドキっ
お、女将さん。驚かさんでくださいな…。
いつもは一人で飲みに来て、カウンターの端っこにチョコっと気ままに飲んでますが、今宵は珍しく仲間が現れることになってるんですよ。
そ、それに…。
これほどまでに計画的に、今来た感を演出できたのだから、バレるはずがないでしょっ!
あちゃ
な、なんだ…。
もう来ちゃったのですね…。
今ちょうど、この美味そうなナマコ酢を、これまた旨そうな日本酒でクイッとやって、お待ちしようと思っておりましたが…。
えっ?
はいはい。そうですよ、そーですよ!
何かですね、飲む約束があったもんで、仕事に身が入らなかったのですよね。なので、それを言い訳に、お店選びを理由にする振りをして、かなり先に来てやってたんですよねっ。
ええっ?
はい、もちろん!ダイジョーブですよ。しっかりと、お料理も決めさせていただいておきましたから。ここのお店の良い感じの美味いところを、ちゃんと女将さんにお願いしてありますから、ご安心くださいな。
今ドキっとしましたね?でしたら次はお料理でドキドキしてみては?
ほぅ~ら! どうです?
見た目にも鮮やかな一品が、出てきましたよ。色々な煮物が、豪華に鮮やかに美しく盛られてますでしょ。
あ、もちろん!お取り分けさせて頂きますよっ。
若布豆腐に合鴨のくわ焼き、それに飾り切りで可愛いくなった人参…、花にんじんですよ。
はい!どうぞっ。
もうビールを飲み干しちゃったですって!?
はぃはぃ、わかりましたョ。お代わりですね。
ったく…。
相変わらずマイペースなお方だこと。今宵は、差しつ差されつ美味しい物に舌鼓を打ちつつ、久しぶりの弾む会話を楽しみにしていたんですがね。
確かにフライングして、先に始めちゃって、それを姑息に隠そうとした事実はありますが、だからと言って、傍若無人な振る舞いを、到着して間もないところから出さなくてもいいでしょうに。
お上品な味付けで柔らかい食感の中に、仄かに香る磯の風味を楽しませてくれる若布豆腐のように、優しい気持ちになったりできないもんでしょうか…。
はいっ! ビールのお代わりが来ましたよ。
えっ? なんですって?
見た目にも華やかな花にんじんのように、ホッと幸せのため息が出てしまうほどの癒しを感じる、素敵な御嬢さんですね!って、上手いこというモンですねぇ。
これまた見事な飾り包丁が、職人技を余すところなく見せつけてくれている。これほどまでに、鮮やかな盛り付け方は圧巻!の一言に尽きる。
そう…。
お見事というのは、今宵の仲間の歯の浮くようなセリフではなく、こちらの職人技を極めつくした目にも美味しい刺し盛のこと。
そして絶妙のタイミングで見事!と口にさせてくれ、流れを一気に引き寄せさせてくれた嬉しい助け舟。
今宵は早くも出るのか?いつものあのセリフが…。
今にも飛び立たんとしている鶴と、今にも駆け出さんとしている虎。そして、それらに守られるように凛とした姿勢で艶っぽい海の幸たちが、安心して眠りについているかのような船上で起こるマリアージュ。
ふぅ~。
見つけられてしまった…。
お料理の味と見た目。
美しいいでたちに、優しいもてなし。
そして、それらが一度に吹き込み、全包囲網で今宵の酒席を楽しませてくれている。何から何までが、最高にキメつくされていて、まるでこちらの十八番を奪い去られてしまった夜。
いつものようにキメることが出来ない…。
なんてことだ…。
刺し盛りで見た目も楽しませてくれ、完膚なきまでに打ちのめされた感があった。
それなのにも、これ。
存在感がにじみ出る大きさの豚ロースが、朴葉にのせられお味噌の衣装をまとう。そして、それを更に美しく演出する卓上でじっくりと温かさを持たせる火鉢の演出。
旨い刺身のタイミングで、仲間にはバレないようにこっそりと熱燗に変えていた、こちらの酒の運びをも絶妙に捉えて攻めてくる。
朴葉と味噌の香りが、鼻から抜ける熱燗の嬉しくマッチする。
そしてしっかりとした歯ごたえを楽しませてくれた後は、まだまだ熱燗に合わせてくれよとフワフワ食感の蕪蒸し。
透き通る上品な見た目の餡に、昆布の塩味が酒飲みのハートを捉え過ぎて堪らない。
そして、更なるおもてなし…。
殺風景な男同士の会食に、色彩を施すしなやかな指が酌す美味い酒。
参りました
あらもう参っちゃった?まだ許されない本当の理由とは?
腹もいっぱい、心も満足とは、こういうことを言うのだろう。もてなすという気持ちを強く持ち、そして居心地の良い優しさで包んでくれる時間。
気が合わないと容赦なく河岸を変えてしまう今宵の仲間も、最後のあいなめのお吸い物まで笑顔で堪能している。
えっ?
この店を今宵の理由を聞かせろとな。そんな簡単なことをわざわざ口にする必要はないさ。
これだよ…。
美味い料理があれば良いということじゃない。心地の良いサービスがあれば良いということでもない。
その当然のことの上に、更に優しい笑顔のもてなしがココにはある。
初めてこの店に見つけられてから、何度となく無意識に足が向いてしまう夜を過ごしていたのには、この笑顔に囲まれる時間を味わいたいと感じていたから…。
さぁて…。
帰るとしようじゃないか。美味い料理を満腹に食らい、素敵な笑顔に囲まれ旨い酒を胸いっぱいに流し込んだ夜だ。
大満足な夜に、はしご酒なんて無礼な振る舞い。まっすぐお家に帰るとするか。
そうだ、もう一つあったんだ。
威勢の良い掛け声とともに、響く拍子木の音。そして何度も振り返って見続けてしまう、女将さんの笑顔のお見送り。
きっとこの笑顔に見送られるから、ここに何度も戻ってくるのだろうな。どれだけ酔ったとしても、この道だけは忘れられないか…。
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