もうどれぐらい、この船室で時間を過ごしたのだろう。
40年の歴史が古さではなく、しっかりと現役で役目を担っているという不思議な空間で、いつものようにバーボンをあおっている。アイツがやってくるまで、ホンの少しの間の時間調整のつもりで入ったのに、気が付けばすっかりと腰を据えて雰囲気に浸っている。
外はすっかり日が落ちてしまったようだ。
中華街が観光客の賑わいから、食事客のそれへと変わっていく時間。視界から賑やかさを感じる昼間から、耳で感じるそれへと変化する。
せっかくだから、もう少し飲むか…。
幸い昼食を遅くとっていたこともあり、まだそれほどお腹は空いていない。いや、空いていないという感覚すら、ここに居ると思い出すことを忘れさせられてしまう。
ただ、ゆったりと海の上に浮かぶ船の中で酔いを深めていきたいと、ゆりかごの中で寝かしつけられている赤子のように駄々を言いたくなっているようだった。
市川オーナー:
もしよろしければ、当店自慢のピクルスを召し上がってみてください。
んっ!
不意を突かれたようなタイミングだった。
カウンターの奥で、静かにグラスを傾けてた男性に声をかけられる。その内容から、その男性がこの店のオーナーだと瞬時に分かった。
そうか、ピクルスか…。
もう少しゆっくりと船旅を楽しんでいたいと思い始めたところだったが、酒だけでは少々口が淋しく感じてしまっていた。何かお酒の邪魔にならず、それでいてお酒の口休めになるものをアテがっておきたかった。
オーナーに勧められたのは、絶妙なタイミングだった。
3杯目にはいつものバーボンに戻し、普段のペースに戻そうとしていたが、またもやこの店のねじれた時空のマジックで、この1杯にどれほどの時間をかけたのかわからなくなっていた。
気が付いてみると、しっかりと濃い小麦色をしていたロックグラスの氷が少し解けだし、柔らかな色へと変化してしまっている。
パクパク隊:
このピクルス、さっぱりしてて美味しいわ。酸っぱさもちょうど良いって感じで、お野菜のシャキシャキした食感もちゃんと残っていて。
少し甘味のあるカクテルを飲んだ後でも、酸っぱすぎずに美味しくいただけるわ。
なるほどね。
女子のハートもしっかりと押さえている。それはこの店の美しさだけでなく、カクテルに合わせるこういったさり気ないツマミでも、押さえるところを押さえていくということか。
市川オーナー:
そちらのピクルスは、添加物を一切使用せずに作っています。
身体にも良く、お酒の相手にちょうど良いでしょう。
お店で手作りしていますので、安心してお召し上がりいただけると思います。
確かにオーナーのおすすめ通り、パンチの利いたバーボンと合わせるのにちょうど良い。それに酒飲みとして、お酒以外のところでは身体に気を使っておきたいとも思うもんだ。
しかし、ちょっと待てよ。
この店の歴史の割に、このオーナーはどう見ても若過ぎやしないか…。
市川オーナー:
1年半ほど前から、このお店のオーナーになりました。
それまでに、様々な奇跡が重なり、今のこの場所があるのです。
20年以上前、まだ二十歳を過ぎたばかりの頃、この店に通っていました。
その当時は、この店を作った最初のノルウェー人のオーナーの奥様が、店をやっていました。
本当に雰囲気の良いお店で、このお店で飲むのが好きだったんです。
そして、いつか自分もこんな素敵なお店が持てたらなぁと、漠然と考えていたんですね。
確かに…。
今のこの店の雰囲気が、当時のままだとすれば、20年以上も前にこの雰囲気を持っていれば、それは最高に素敵なお店だったに違いない。
でも…、いや、しかし…。
なぜ、通っていただけの当時二十歳そこそこの若い男が、今こうしてこの店のオーナーになっているんだろうか。
着こなすスーツ姿。カウンターに座り、グラスを見つめる眼差し。
その素敵なまでに整った仕草を見ると、もしかするとこのオーナーもバーテンダーなのかも知れないと思わせられるが、それだったら、カウンターの中で素敵なドリンクを作っているだろうに…。
…、ん!?
な、なんだ。
この店の持つ時間の感覚を操る謎を解いていこうとしている横で、コイツは更にまだオーダーするつもりか?
スラッと伸びた綺麗な指を持つバーテンダーが、また新たなドリンクを作っているが、この空間には他の客はいない。
普通ならそんなことの一つ一つに驚くことはないが、既に2杯のカクテルを空けている後だ…。
珍しいこともあるもんだ…。
中村さん:
何か果物のカクテルということでしたので、この季節の旬な果物「スイカ」を使ったカクテルです。
スイカの果汁をウォッカで割った…、スイカのソルティードッグですね。
グラスのクチ半分にだけ、ソルトをまぶしていますので、その味の違いをお楽しみください。
いや、それにしてもよくお飲みになる日だな。
普段なら1、2杯飲んだら酔っぱらうなんて言っていたが、この店の魅力にとり憑かれて、酔いを酔いと感じなくなっているのだろう。
それが良い酔い(ヨイヨイ)というもんだ…。
パクパク隊:
う~ん…。スイカ!
って、ちょっと、いまシレェ~ッといったけど、何かおかしなこと言わなかった?おやじギャグ??
良いんだ、そんなところをワザワザ拾わなくて…。この店に入ってから、オーナーを始め美しすぎるほどの仕草を持った男たちに囲まれているんだ。その雰囲気に合わせて、ここまで一つもボケることなく、ニヒルな装いを保ってきたんだ。
その無理がちょっと顔を出してしまっただけなのさっ。
そんなことより、せっかくオーナーから良い話を聞き出せそうなんだ。そっちはそっちで静かにやっててくれないか。
市川オーナー:
どこまで話しましたかね…。
あ、そうそう。こんな素敵なお店を持てたらって、二十歳過ぎの頃に思ったってところでしたね。
それから何十年も経ったある日、このお店がなくなってしまうって話を耳にしたんです。
最初のノルウェー人のオーナーが亡くなった後、その奥さんが、このお店を守ってこられていたんですが、その奥様もお亡くなりになって、お店が閉まってしまったのです。
それで、こんな素敵なお店が取り壊されて、また別のお店に貸し出す…。そんな話を聞いたときに、いてもたってもいられなくなって。何とか、自分にこの店をやらせて欲しいと、関係者の方に想いを伝えました。
若い時の夢が正夢だったということか…。
二十歳過ぎにこの店に来たとき、いつかこんな素敵なお店を持ちたいと考えた気持ちが、色んな縁を引き寄せた。それを叶えるだけの強い想いがあったということだな…。
ふぅぅ…。
何て素敵な話なんだ。良い店を残したい、良い想い出を繋いでいきたいと、このオーナーが強く思ったからこそ、今こうして美味い酒と一緒に、時空を旅している感覚になっていられている。
古林さん:
お代わりですね。かしこまりました。
煌びやかな話を聞くと、もう一つ飲みたくなってしまう。ここの酒は良い酒だ。アイツに負けずと、ヨイヨイと洒落こんでみるか。
さっきいつものバーボンを探した視線の先で、気になっていたもう一つのバーボン。そいつがコレだった。
このオーナーのように、二十歳を少し過ぎたばかりの頃、初めてバーボンを飲む仕草を教えてくれた大切な想い出があるから、今になってもいつものバーボンを選んでいるが、今は違った想い出を作りたくなった。
な、なんと!
ま、まだ飲むつもりなのか?
…、いや、まだ飲めるっていうのか??
パクパク隊:
オーナーの素敵なお話を伺っていたら、私もついつい飲みたくなってきちゃったわよ。
このお店の素敵な雰囲気は、色んな人の大切な想い出が詰まっているのね。
良いお話を聞いていてら、熱くなってきちゃったから、冷たいカクテルをお願いしちゃった!
何ともまぁ、可愛らしいお飲物なんでしょう。
確かに、素晴らしい話を聞いていると、色んなところが熱くなってくる。
それに見た目にも夏らしいカクテルだな。
中村さん:
そちらは、ピニャコラーダのフローズンスタイルです。
パイナップルジュースとココナツミルクをラムベースで仕上げたカクテルですね。
夏ですからフローズンスタイルにしてみました。
この店にスイッチを入れてもらってから、既に4杯のバーボンを空けているが、バーボンの酔いというよりは、この店そのものに酔っているという感覚。
そして、この感覚はコイツも同じか…。
時間の感覚すら、そして空けたグラスの数すらをも忘れさせてくれる。今まで探していたBARに、長い旅路の末にようやく辿り着いた。そんな夢のような感覚にもさせてくれる。
時空を操る匠だな。
ふ~っ。
ごくっ…、
おっと、いつもの決め台詞はもう少し後だ。
その前に、最後にもう一つ、オーナーに聞いておきたいことがある…。
本当に、この店は当時のままなのだろうか。どう見たって40年も経っている店には思えないし、どう見たって美しすぎるほど綺麗に保たれている。
市川オーナー:
殆ど当時のままですよ。カウンターも、このカウンターの椅子も当時のままです。
調度品などは、私の代になってから選び置いたものもありますが、基本的には当時のままです。
このお店には初代のオーナーの想い出、そしてお亡くなりになった後に引き継がれた奥様の想い出。
そして40年間の間に、このお店に来てくださったお客様の想い出がたくさん詰まっているのです。
もちろん、私の20年前の想い出も一緒に。
色んな人たちの大切な想い出が詰まったお店ですから、何も変えず、そして何も変わらずにしておきたいのです。
確かに、40年間のたくさんの想い出が詰まっている…。しかし、そこには全くの古さを感じさせない趣がある。
綺麗に磨かれた壁やカウンター、そして今でもしっかりと最前線で現役を果たしているジュークボックスと真空管アンプ。
時間の魔術師が魔法をかけた時空の捻じれは、たくさんの想い出を乗せたまま、まだ航海を続けている客船ということか…。
市川オーナー:
あ、ジュークボックスですか。維持するのも大変ですね。
音楽をかけるだけなら、何もこんな物を使わなくても良いですよね。でも、このレコードの音が良いのです。温もりがあるというか、デジタルには無い優しさがありますから。
今の時代に考えれば、無駄なことがたくさんあるかも知れません。しかし、この店の40年の想い出というものは、2度と作れないものですから、これを無くす訳にはいかないのです。
そうか。
少しわかったような気がする。待ち合わせまでのホンの少しの時間だと思って入った店。パチンっと、スイッチを入れられるように雰囲気に身を任せられた訳。そして、ゆっくりと時間を費やし、4杯ものバーボンを空ける程、長く時間を過ごしたくなった気持ち。
それは、40年以上に渡り繋がってきた想い出たちが、BAR NORGEという船室に彷徨い、様々な奇跡を重さね続けているからなのだろう。
やっと見つけちまった。
珍しく自ら進んで4杯も飲んだアイツ。
その割には、まだまだしっかりした足元をしているアイツに、そろそろ飯でも食わせに行くか…。
ショップデータ
- BAR NORGE
-
- 横浜市中区山下町217番地
- TEL:045-641-7020
- 営業時間:
月~金 18:00~3:00
土 13:00~3:00
日 13:00~24:00 - WEB:bar-norge.com