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2017年8月14日(月)
関内の発展の陰で消えた川、派大岡川にあった橋の足跡をたどる
京浜東北線の桜木町~石川町間には、JRの線路と平行に首都高速横羽線と一般道の新横浜通りが通っています。しかし、この2つの通りがある場所は、40年前まで「派大岡川」という人口の河川が流れていました。本記事では、この川に架かっていた橋の足跡を追いかけます。
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2017年6月17日(土)
開港横浜の明治大正期の名勝史跡、元町百段の名残りを探してみた
幕末開港後、明治大正期の横浜における絶景スポットに、元町の崖にある「元町百段」という階段がありました。しかし現在、そのような階段はかけらもありません。どのように消えてしまい跡地はどのようになっているか、実際この目で確かめに行ってみました。
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2017年3月21日(火)
現代社会になくてはならない「写真」の日本での発祥の地は関内!
関内新聞の新連載「発祥の地を訪ねて」の第2回は、我々の生活になくてはならない「写真」を日本で初めて商業的に活用した写真師・下岡蓮杖(しもおかれんじょう)の功績を称え、その写真館のあった地に建立された「日本写真の開祖・下岡蓮杖顕彰碑」です。
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2017年3月10日(金)
川越から横浜へ…、生糸商人吉田幸兵衛氏の足跡を追ってみました
幕末開港直後より横浜で「生糸売込商」として活躍した、川越藩御用商人・吉田幸兵衛氏の生い立ちと偉業・足跡、横浜の後世に残したものをまとめてみました。当時の「生糸売込商」の活躍ぶりや生糸売買の実態が、克明に記録されていることが判ってきました。
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2017年3月5日(日)
明治五年、横浜~新橋間に初めて鉄道が開業した記念碑を訪ねて
関内新聞の新しい連載「関内・発祥の地を訪ねて」の第1回を飾るのは、日本で始めて開業した当時は陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれていた鉄道(横浜~新橋間)の発祥の地。開業当時「横浜駅(現:JR桜木町駅)」と呼ばれた駅跡に建つ「鉄道創業の碑」です。
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2017年2月3日(金)
関内馬車道の裏手にある「六道の辻通り」の由来を探ってみました
地下鉄関内駅9番出口にある「馬車道」裏手に「六道の辻通り」という、一見お地蔵さんが立っていそうな名前の通りがあります。この通りの名前の由来について調べてみましたところ、その由来となるものが別の通りにあった可能性が浮かび上がってきました。
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2016年12月12日(月)
【歴史探訪】-三塔物語に囲まれた、関東大震災の遺構を訪ねる―
横浜三塔は、関内地域の海側にある、横浜の歴史的建造物である3つの塔(キング、クイーン、ジャック)のことです。2014年に、これら3つの塔を結んだ三角形の内側から、明治大正時代の横浜を偲ばせる歴史的遺構が見つかりました。どのようなものでしょうか。
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2016年10月10日(月)
日本におけるホテル発祥の地が関内にあったこと知っていますか?
ペリー黒船来航からわずか7年、万延元年に日本における最初の西洋式ホテル「ヨコハマ・ホテル」が開業。レストランやプール・バーもこのホテルから日本全国に広がっていくのです。関内に多い個性豊かなバーも、実はこの場所が発祥の地だったのですね。
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2016年9月6日(火)
弁天通りにある「横浜郵便発祥の地」の記念碑から新たな発見が!
関内、弁天通り3丁目の交差点にひっそりと佇む「横浜郵便発祥の地」の石碑。その内容に興味を持って取材を進めていくと、近代日本の郵便制度が確立されていく過程において、横浜・関内が重要な役割の一端を担っていたことが明らかになってきました。
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2016年8月29日(月)
本邦初のプロテスタント教会、ペリー来日19年後の横浜に誕生す。
1853年ペリーの黒船来航より僅か19年後に日本初のプロテスタント教会が横浜に誕生した。1867年大政奉還したのものの、キリシタン禁制下の日本でプロテスタント受洗した若者たちの強い意思によって築かれた姿は、時に苦境に遭遇しつつも現在にまで伝わっている。
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2016年8月20日(土)
【歴史探訪】-関内の小さな遺跡を訪ねる3 -二代目市庁舎遺構-
「関内の小さな遺跡を訪ねる」と題したこのシリーズも3回目となりました。横浜関内地域にも、道の傍にさまざまな小さな遺跡・遺構があります。今回は関内駅そばにある横浜市庁舎敷地内で、2013年の工事中に見つかったこの遺構について調べてみました。
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2016年8月13日(土)
【歴史探訪】-関内の小さな遺跡を訪ねる2 -居留地の防火水槽-
関内地区にはKAATや横浜公園の敷地内だけでなく、至る所に開港時代から明治、大正にかけて存在した建築の遺構があります。今回はその第二弾として、大さん橋通りの横浜都市発展記念館近くにある、最近まで使われていた防火水槽の遺構を見てきました。
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2016年7月23日(土)
【歴史探訪】-関内の小さな遺跡を訪ねる1 -シルク通りの大砲-
横浜市の関内には、KAATの敷地内にある旧居留地の遺構群や横浜公園に昔あった遊廓の石灯籠以外にも、地区の至る所に開港時代から明治~大正にかけて存在した建築の遺構があります。今回はその第一弾として、シルク通りの隅にある大砲を見てきました。
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2016年6月18日(土)
【歴史探訪】ー横浜公園の地にあった遊廓のその後の足取りを追う
1866年の豚屋火事で焼失した港崎町の遊廓。しかし、火事の前に居留地外国人と取り交わした覚書によって、元の地に遊廓を再建することは叶わなかった。その為、遊廓は横浜市内を転々とした挙句、最後には今の真金町に定着し1958年まで営業は続けられていた。
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2016年5月26日(木)
【歴史探訪】ー横浜公園の地にあった『岩亀楼』の足跡「その2」
横浜公園にあった遊廓は、幕府が積極的に推進して建造された。しかし居留地の外国人にはあまり評判良くなく、遊廓そのものは、幕府の思惑と居留地外国人の思惑との板挟みに合う。そこへあの「豚屋火事」という大火が発生し、遊廓そのものが消えてしまった。
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2016年5月19日(木)
【歴史探訪】ー横浜公園の地にあった『岩亀楼』の足跡「その1」
現在の横浜公園の場所にはその昔遊廓があり、あたかも東京の吉原のような賑わいがあったのはご存じか? 今回はその遊廓の足跡(そくせき)が今でも残る場所を訪ねてみました。そこは横浜公園一帯の喧騒から取り残されたような、ひっそりとした場所でした。