2017年8月14日

関内の発展の陰で消えた川、派大岡川にあった橋の足跡をたどる

佐野 文彦 佐野 文彦

京浜東北線の桜木町~石川町間には、JRの線路と平行に首都高速横羽線と一般道の新横浜通りが通っています。しかし、この2つの通りがある場所は、40年前まで「派大岡川」という人口の河川が流れていました。本記事では、この川に架かっていた橋の足跡を追いかけます。

派大岡川って?

横浜が開港したはるか前の1667年に吉田新田が出来た際、吉田新田と今の石川町側の陸地との間に、中村川という人工河川が新たに出来ました。

出来た当初は、吉田新田と今の本町通りあたりにあった砂州との間に、「入海(いりうみ)」があったのですが、歳月が経つにつれてその入海の浅瀬化が進み、その浅瀬も新田開発しようかという流れになります。

そして18世紀末ごろ中華街付近を「横浜新田」、19世紀中ごろの横浜開港直前に横浜公園あたりから大岡川までの一帯を「太田屋新田」として新たに干拓が始まりました。

その際「中村川」の水を海に逃がすための川として、今の石川町駅の近く、本牧通の「西の橋」付近で90度曲げて、桜木町方面まで流れる「派大岡川」が出来上がることになります。

そして江戸時代の終盤(1859年)に横浜が開港しますが、90度曲がる派大岡川は、中村川から海に向かって真っすぐぶち抜かれた人工河川「堀川」と共に、関内を「出島化」するためのお堀の役目も担うことになりました。

やがて開港して歳月が経つと、横浜は元の半漁半農の村からだんだん都市化が進み、派大岡川の性質が「干拓地の排水河川」や「外国人を隔離するお堀」の役目から「都市物流の基幹運河」へと変わっていくことになりました。

さてその派大岡川は、実際にはどのような経路で流れていたのでしょうか?

戦後12年経過したころに発行された地図には以下のように記されています。

横浜市明細地図

新横浜市街図 中央部拡大(『横浜市明細地図』裏面 1957年):横浜中央図書館所蔵

派大岡川は、地図中の横浜公園のちょうど上に接するように横方向に流れている、緑色表示の川です。

横浜公園や伊勢佐木町、都橋などの位置から、大体どのあたりに派大岡川があったか想像つくかと思いますが、念のため今の地図も表示します。


大岡川から関内駅までの間は、首都高速道路と新横浜通りの真上、関内駅から石川町駅までは横浜公園そばの本牧通りに沿って「派大岡川」が流れていたことがわかります。

横浜の戦前戦後において市内物流の基幹になっていた派大岡川も、戦後の高度経済成長が進むにつれ、輸送手段が運河を進む船舶から道路を走るトラックなどに移り、横浜関内の道路拡張が必要になりました。

このため、永らく輸送の要になっていた派大岡川も1977年に埋め立てられることとなり、そこの跡地に首都高速横羽線や新横浜通りが出来たのでした。

派大岡川の痕跡

現在、2017年は派大岡川が埋め立てられてちょうど40年目になります。今現在でも派大岡川の痕跡を見つけ出すことが出来るか、この機会に探してみることにしました。

最近放送されたテレビ番組で、関内駅北口改良工事の現場から関係者専用の通路を使えば、派大岡川の痕跡にたどり着くことがわかりました。

しかし、たどり着くには極めて特別な許可が必要で、通常は見ることが出来ません。

このような状況でも川の痕跡を見るとしたら、川に架かっていた橋の痕跡、もしくはその周辺を見つけ出せばいいかと推測。

派大岡川の痕跡、入り口は元町入り口の「西の橋」付近になります。

横浜市明細地図

新横浜市街図 中央部拡大(『横浜市明細地図』裏面 1957年):横浜中央図書館所蔵

現在の「西の橋」付近、「派大岡川」の入り口があった場所は、現在このようになっています。

西の橋

写真中央左の壁あたりから、派大岡川が始まっていたようです。確かに、西の橋の橋脚端っこに、昔の面影があるような気がします。

でもそれだけではあまり確証がないので、写真の「西の橋」を渡り、関内側の方に痕跡がないか調べてみました。

西の橋の石垣すると、橋を渡った先の道路を横断した先がお堀のような段差になっていて、この写真のような石垣がありました。

ここの反対側の「派大岡川」入口跡を埋めている水路壁は、この写真の正面に見えるようなコンクリート1枚板でした。

しかし、写真の中央左側に見える、本牧通りに沿っている段差壁は石垣です。

これは昔の「派大岡川」に沿って出来ていた、水路壁の跡ではないでしょうか。

他にも「派大岡川」の水路壁の跡など見つからないかと探してみましたが、ここの他には容易に人が立ち入れる場所では見つけることは出来ませんでした。

派大岡川に架かっていた橋の痕跡

昔の地図より、「派大岡川」には、七つの橋が架かっていました。どんな名前の橋があって、現在にも痕跡があるかどうか調べてみます。

横浜市明細地図

新横浜市街図 中央部拡大(『横浜市明細地図』裏面 1957年):横浜中央図書館所蔵

まずは、元町側にある4つの橋から調べてみます。

吉浜橋

吉浜橋は、JR石川町駅の中華街側出口の近くにあります。首都高速をまたがる橋を想像し、写真のような場所に吉浜橋があったかのように思えます。

吉浜橋

でも地図で見る限り以前の吉浜橋は、写真の交差点より元町側に数十メートル程度移動した場所にあったようです。

とある有料駐車場の歩行者入口付近を探してみましたら、なんと吉浜橋の橋桁の痕跡らしきものをみつけました。

吉浜橋

普段目立たないところに、このような痕跡がありました。他の橋も探せば見つかるかも知れません。

花園橋

花園橋は、現在の「大桟橋通り」がつながっていた橋で、橋が架かっていたころは市電が走っていたようです。派大岡川は根岸線の高架下を流れていたようで、現在の風景はこのようになっていています。

首都高速の横浜公園ランプが出来ていたりして、当時の面影を見つけ出すのが難しい状況です。

花園橋

もしかしたら見落としているのかも知れませんが、花園橋の痕跡を見つけることが出来ず、少々寂しい感じがしました。

港橋

港橋は「港大通り」からつながっている橋でした。関内駅の市役所側の出口を出て、横浜スタジアムに向かって歩き、最初に信号待ちをするスクランブル交差点のところにあった橋と言えば、連想がつくと思います。

関東大震災までは、魚市場があった場所だそうですね。

現在の港橋跡は、このようになっています。

港橋

ここも痕跡がないのかなと思っていましたが、この写真に見えている横断歩道を渡ったところに、ちゃんとありました。

港橋この橋は、今では川の上ではなく首都高速道路の上に架けられています。

この橋の欄干と「みなとはし」の表示板は、当時のものかどうかはわかりません。

しかし、古い時代のものにも見えますので、埋め立てる直前の橋のものを残しているのかなと推測しました。

豊国橋

この橋は、”ほうこくばし”と読むのか”とよくにばし”なのか現在調査中です。しかし、そもそもこんなところにも橋が架かっていることに驚きます。

地図で見る限り、関内の「さくら通り」と、今は大通り公園である昔の「吉田川」の伊勢佐木町側に一つ入った通り(蓬莱町通り?)を結ぶ橋のようでした。

横浜市明細地図

新横浜市街図 中央部拡大(『横浜市明細地図』裏面 1957年):横浜中央図書館所蔵

この豊国橋、現在はこのように改築工事中の関内駅に遮られたり、交差点も何もないので、文字通り何も残ってない橋となってしまっています。

豊国橋

あまりにも何も残ってないので、昔の写真に写ってないかと調べてみましたら、小紙の過去掲載記事に豊国橋が写っている写真がありました。

(2016年12月28日投稿『JR関内駅北口が大きく変わります。果してどのように変わるか?』)

出来たばかりの関内駅のホーム下に向かって突っ込んでいる、小さな橋が「豊国橋」です。

もしかしたら、歩行者と自転車だけの橋だったのかも知れません。自動車通行の必要性がなかったとしたら、派大岡川埋立の際に、豊国橋がなくなってしまうのもうなずける話です。

羽衣橋

羽衣橋は、先ほど紹介した豊国橋の隣にある大きな橋で、先ほどのリンクに飛ぶと、埋め立て直前には片側二車線の車道に市電の線路が複線で通っていたという、大きな橋であったということがわかります。

今は写真の通りで、国道16号線が通っている「関内大通り」と「鎌倉街道」を結ぶ交差点になっています。残念ながら往時を偲ばせる「橋の痕跡」たるものは見つかりませんでした。

羽衣橋

今は通りの規模としては、この羽衣橋跡の交差点が一番大きいかも知れません。

しかし、昔はこの隣にある「吉田橋」が一番重要で、関内と伊勢佐木町の重要な通りどうしを結んでいました。

吉田橋

この橋はその名の通り、関内地区と吉田新田を結ぶ橋だったのでしょう。この派大岡川に架かる橋の中では、最も歴史の古い橋だったようで、1859年の開港の直後には仮の橋が架けられたと伝えられています。

この「吉田橋」と元町の方に今でもある「谷戸橋」が、当時「出島化」されていた関内地区と伊勢佐木町や元町の「関外地区」とを結ぶ関門になっていたそうです。

吉田橋は最初は木製の橋でしたが、1869年11月に、横浜公園を設計したブラントン氏の手によって改修され、日本最初の鉄橋となって関内の馬車道と伊勢佐木町側を結ぶようになりました。当時の市民からは「鉄(かね)の橋」と呼ばれて親しまれていたそうです。

橋にあった関門は1871年に撤廃されましたが、橋そのものはそのまま引き継がれました。

橋が鉄製であったことも幸いし、1923年9月1日の関東大震災でも崩落・焼失せず、1945年5月29日の横浜大空襲でも持ちこたえました。

そして、派大岡川が埋め立てられるまで、馬車道と伊勢佐木モールを結ぶ「橋」として存在し続けました。

そんな吉田橋の現在はこのようになっています。

吉田橋

この写真を見る限り、もうここには跡地を示す石碑しかないように見えます。でも今の吉田橋は、昔の派大岡川を跨いでいたように、首都高速を跨いでいます。

ちゃんと、鉄橋としての欄干を残していました。

吉田橋

この橋は関内と関外を結ぶ橋の中で最も歴史のあるものなので、このように橋としての形態を残して保存しているのかなと思いました。

柳橋

一番最後に紹介する橋は、桜木町側の大岡川と合流する場所に架かっていた橋「柳橋」です。

この橋も、反対側の中村川から分岐するところのように、昔の痕跡が何かしら残っているといいのですが。

まずは、現在の写真を撮ってみました。

柳橋

残念ながら柳橋のあったところは、大岡川との境目だったために、派大岡川を埋めた上に護岸工事までも行ったので、橋の痕跡を見つけ出すことが出来ませんでした。

真正面に見えるJR京浜東北線の鉄橋は当時から何も変わっていないので、派大岡川が埋め立てられる要因となった水上運送の衰退ぶりがよくわかってしまいました。

おわりに

今回駆け足でしたが、派大岡川に架かっていた七つの橋の痕跡を追いかけてみました。

ざっとまとめると、以下の表のような結果になります。

橋の表札 古い欄干 その他
吉浜橋 × 〇(橋脚跡)
花園橋 × × ×
港橋 ×
豊国橋 × × 〇(小紙掲載写真)
羽衣橋 × × 〇(小紙掲載写真)
吉田橋 〇(石碑など)
柳橋 × × ×

やはり記念碑など建立したりして、往時の面影を一番残している橋は吉田橋でした。

他の橋で、かろうじて橋の欄干を残しているものは港橋、橋脚の痕跡が駐車場の下に残っていたものが吉浜橋、痕跡が残ってないものの小紙が過去掲載した写真に映っていたのが豊国橋と羽衣橋、まったく痕跡が見つからなかったのが花園橋と柳橋でした。

橋が映っている写真や絵画がないかこれからも調べていきますが、この派大岡川にも7つもの橋が架かっていて、関内と関外を結ぶ重要な交通インフラだったんだろうなと、往時が偲ばれました。

この記事の著者

佐野 文彦

佐野 文彦博士

滋賀県で生まれ、学生時代を福井で過ごす。社会人になってからは、横浜を生活拠点としている。本業の傍ら、ジャズやゴスペル・ファンクなどでサックス演奏や、コーラスグループでの合唱活動も行っている。横浜が自分の歌や演奏で満ち溢れるといいなどと、大風呂敷な夢を持ち歩いている。彷徨うような街歩きが大好き。

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