2017年6月17日(土)

開港横浜の明治大正期の名勝史跡、元町百段の名残りを探してみた

アバター画像 佐野 文彦

幕末開港後、明治大正期の横浜における絶景スポットに、元町の崖にある「元町百段」という階段がありました。しかし現在、そのような階段はかけらもありません。どのように消えてしまい跡地はどのようになっているか、実際この目で確かめに行ってみました。

元町百段は、どこにあったのでしょうか?

元町は横浜開港時に、今の関内・山下町一帯に当たる場所に住んでいた元住民、すなわち元横浜村民を強制移住させた場所が、後に呼ばれるようになった名前です。

中村川が海に向かって延伸した堀川と、山手の崖との間に細長く広がっています。

元町と山手との間には、汐汲坂・代官坂・貝尻坂・谷戸坂という坂があり、今でもバス通りになっていて、交通の要衝になっているものもあります。

ところで、明治大正期の元町にはこれの他に「元町百段」という階段がありました。

どこにあったのか、過去の書物や写真を見ると、大体この辺りにあったようです。


ちなみに明治初期の地図には、このように元町百段が描かれていました。

元町百段階段

横浜明細全図再販(1968年):横浜中央図書館所蔵:矢印加筆

地図中の赤い矢印をつけたところです。

当時の地図は少々絵地図のようになっていますが、元町の麓から山手町の頂上まで一直線の階段があったことがわかります。

元町百段は、どのような景観だったのでしょうか?

元町百段は現代の元町にはありません。明治のころにあった観光スポットです。一体どのような光景だったのでしょうか?

ここに、元町百段に関する過去の写真があります。明治のころに撮影された白黒写真に、後で彩色を施したものです。

元町百段階段

画面のほぼ中央に、真っすぐで急峻で長い大階段が、元町の麓から山手町に向かって聳えています。これが元町百段です。

まるでとある日本映画の階段落ちのシーンを思い出してしまいます。階段から落ちてしまったら、痛いだけでは済まなかったことでしょう。

このパネルを見ると真ん中一番下あたりに、右から「横濱元町淺間山」と読めるところがあります。

調べてみると、当時そこは本当に「浅間山」と呼ばれていたようで、同時にそこには浅間神社という富士山信仰の神社と、一軒のお茶屋さんがあったそうです。

現代、元町百段の頂上付近だと想定された場所には、名づけて「元町百段公園」という名前の公園があります。どのような光景なのか見に行ってきました。

元町百段公園に行くには、石川町駅側の隣にある坂「汐汲坂」(下の写真)か、

元町百段階段

元町中華街駅側の隣にある「代官坂」の途中から始まる階段(下の写真)からアクセスが出来ます。

元町百段階段

ちなみにここの階段は踊り場から右に曲がり、さらに下の写真のように長い階段を上ります。

元町百段階段

夏の暑い日にこの階段を上がると、息も上がってしまいそうです。麓から階段の段数を数えてみましたが、合計93段になりました。

同じような崖を上っているのですが、階段の始まる場所と終わる場所の標高が微妙に違うので、100段に達しないのでしょう。

ちなみに、元町百段の正確な段数は101段だったそうです。

両方の坂(階段)のてっぺんまで上がって、数百メートルほど裏通りを歩くと「元町百段公園」にたどり着きます。

元町百段階段

階段の看板のそばにも、昔の階段の写真をレリーフ化したものがありました。

現在この場所はこのような公園になっています。

元町百段階段

この公園にある何本かの円柱は後世に建てられたもので、明治大正期の横浜とは何の関係もないようです。

ところで、元町百段があったところと想定される公園からの、現在の眺めはこのようなものです。

元町百段階段

遠くにランドマークタワーが聳え、山下町や関内のビル群が視界を遮っているため、残念ながら海辺が見えたかどうかは想像するより他ありません。

ちなみにこの場所には浅間神社があったということ、浅間神社は富士山信仰より成り立っている神社ということで、この場所からは富士山も見えるはずなのですが、残念ながらそちらの方向には、石川町駅のそばに聳え立つ高層マンションに景観を遮られてしまっていました。

元町百段は、どのようにして消えてしまったのでしょうか?

最初に紹介しました古い地図と古い写真にある通り、元町には「元町百段」という階段が崖下の元町から崖上の山手町まで一直線につながっていました。

ところが、現在の「元町百段」のあった場所はこのようになっています。

元町百段階段

あの階段のあった場所が老舗レストランのビルと商店に塞がれていて、単なる崖にしかなっていません。
しかし一方で、この場所のちょうど反対側には、堀川を渡す前田橋越しに中華街の南門「朱雀門」が見えています。

元町百段階段

すなわち、この朱雀門のある通り(現在では南門シルクロードと呼びますが)を通じて、元町百段と中華街が真っ直ぐつながっていたということがわかり、元町百段は重要な名勝だったに違いないことが想像できます。

どのようにして、元町百段がなくなってしまったのでしょうか?

元町百段は、1923年9月1日の関東大震災によって大きく崩れ、修復する余地がないほどにまでなってしまったそうです。

「横浜中区史」を参照しますと、

―(略)私たちは、山手のずっとはずれたところの、神社がひとつと、伝統のある茶屋一軒がある浅間山から下方の第二の橋の対岸にある元町へと百の階段が急角度で結んでいる、見慣れた地点へたどりついた。階段と、それがついていた崖の半分はすでになく、くずれ落ちて下の家々をおおって見えなくしていた。目くるめくような傷跡と、ひとつの土の小山だけがその地点に残っていた。(略)―

まさに目を覆うような惨状が、そこにあったと思われます。

このように、元町百段があまりに悲惨な崩壊を起こしていたため、その後横浜市全体を復興するにあたっては、元町百段を修復するのを諦め、元の崖の姿に戻してしまったそうです。

地図や写真を頼りに、もしかしたらこの辺りが元町百段の頂上じゃなかったのかなと思う場所を、上の方から撮影してみました。

元町百段階段

緑で鬱蒼となっており、往時の面影は欠片もなさそうです。

もしかしたら、石段のかけらが転がっているかもしれませんが。

おわりに

現在、横浜開港資料館や横浜都市発展記念館などの施設や、横浜を特集する番組などで、昔の地図と今の地図を比較して「地図から消えてしまったもの」などを探求する特集が開催されています。

今回小紙が紹介した「元町百段」もその中の一つです。

この他にも地図から消えてしまったものは、探せば沢山出てきそうですね。

また紹介できればと思っております。

この記事の著者

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佐野 文彦博士

滋賀県で生まれ、学生時代を福井で過ごす。社会人になってからは、横浜を生活拠点としている。本業の傍ら、ジャズやゴスペル・ファンクなどでサックス演奏や、コーラスグループでの合唱活動も行っている。横浜が自分の歌や演奏で満ち溢れるといいなどと、大風呂敷な夢を持ち歩いている。彷徨うような街歩きが大好き。

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