2016年8月13日

【歴史探訪】-関内の小さな遺跡を訪ねる2 -居留地の防火水槽-

佐野 文彦 佐野 文彦

関内地区にはKAATや横浜公園の敷地内だけでなく、至る所に開港時代から明治、大正にかけて存在した建築の遺構があります。今回はその第二弾として、大さん橋通りの横浜都市発展記念館近くにある、最近まで使われていた防火水槽の遺構を見てきました。

関内地域にある小さな遺構たち

横浜市の関内エリアは、幕末の開港時に突貫工事で作られた街でしたが、外国人居留地が広大で整然と存在していたこともあり、大変特色ある街並みが存在していました。

しかし残念ながら、これら街並みの大半は1923年9月1日の関東大震災で倒壊してしまうことになります。

今日でも関内エリアを散歩すると、そこかしこから当時の遺構を見つけることが出来ます。

今回は、関内大桟橋通り沿いにある、この遺構について説明します。

これは何の遺構だろうか

この遺構は大桟橋通りを、横浜公園から大さん橋に向かって左の歩道を歩く途中、歩道の左側の空き地のような場所に突然現れます。

 
この、地面から少しだけ顔を覗かせたような感じのする、この変な遺構は一体何者なのでしょうか?

近くに案内板がありました。内容を要約しますと…

  • この施設の名前は「旧居留地消防隊地下貯水槽遺構」といいます。
  • 1871年から1899まで本拠地を置いていた居留地消防隊が作りました。
  • 大変しっかりした造りのため、その居留地消防隊がいなくなっても1923年の関東大震災にももちこたえました。
  • 防火水槽の構造がヴォールト(アーチ)構造の天井と、十字補強物による4室構造が、堅固なものにしたようです。
  • 1972年まで防火水槽として使われていました。
  • すなわち100年以上もの間、ここの防火水槽は実際に使用されていました。
  • 実際にこの地には、自治体消防体制発足時の横浜市消防局本部が置かれていました。
  • 日本初の消防車(1914年)、日本初の救急車(1933年)もここから生まれました。
  • 最後は1994年までこの地に日本大通消防出張所がありました。

ということで、この水槽、現在もしっかり貯水されているそうです。この防火水槽のあるところ、実は日本の消防救急発祥の地だったんですね。

こんなプレートもありました。

しかし、どういういきさつでここが「消防救急発祥之地」になったのでしょうか。

それは、幕末の開港時に起きた事件にまで遡ります。その事件とは、1866年11月に発生した通称「豚屋家事」だったのです。

当時の横浜開港場の末広町にあった豚屋鉄五郎宅から火事が発生し、関内の日本人町の三分の1、外国人居留地の四分の1を焼いてしまいました。

その事件が元で、横浜の防火対策が始まるのですが、居留地外国人の主導で進められたようです。従って、従来の「江戸町火消し」のような消防隊にはならずに、当時の欧米の組織形態に従ったものになりました。

それが先ほど紹介した1871年開設の「居留地消防隊(Yokohama Fire Brigade)」です。これが、現在日本全体に広く制度化されている、消防救急体制のはじまりです。

この遺構は、丈夫に地中に大半埋め込まれてますから、いつまでも大切に保存してほしいですね。

おわりに

関内を歩くと、思わぬところに歴史の遺物・遺構が転がっています。それはまるで先日より日本でも配信され始めた「ポケモンGO」のモンスターようです。

横浜の歴史遺物・遺構とモンスターを同列に並べてしまうのは少々憚られてしまいますが、関内の街角をちょっと観察するだけでいろんなものが見つかるのは、なんだかとても楽しいものです。

これからも随時見つけていきたいと思います。

この記事の著者

佐野 文彦

佐野 文彦博士

滋賀県で生まれ、学生時代を福井で過ごす。社会人になってからは、横浜を生活拠点としている。本業の傍ら、ジャズやゴスペル・ファンクなどでサックス演奏や、コーラスグループでの合唱活動も行っている。横浜が自分の歌や演奏で満ち溢れるといいなどと、大風呂敷な夢を持ち歩いている。彷徨うような街歩きが大好き。

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