あなたは知っていますか?「関内」の範囲
横浜DeNAベイスターズの応援歌が流れ、「かんないー、かんない、です」のホーム放送のアクセントがちょっと気になるJR根岸線の関内駅。
わたしたちがなんとなく「関内」と呼んでいるこの一帯、どこからどこまでが「関内」なのか元々はしっかりと定義があるのをごぞんじですか?
さらには「関内」に対して「関外」までも存在し、その明確な境目も現存するのです…!生粋のハマっ子の友人に聞いても「初めて知った!」と言われたこの事実、もう少しくわしくご紹介します。
「関内」の「関」は「関門」の「関」
横浜は言わずと知れた開港の街。ズバリ、その開港場があった区域が「関内」です。現在の地図で定義すると、大岡川、首都高、中村川、そして海に囲まれたエリアがそれにあたります。
「関」は関門を意味し、開港場にあたる関門の内側(港側)がおなじみの「関内」。そしてその外側が「関外」と呼ばれました。この「関内」と「関外」を分ける境目は史跡とともに今も存在します。それがイセザキモール関内駅側入り口にある「吉田橋」なのです。
橋脚のない鉄橋は、吉田橋が日本初!
吉田橋は1859年に「関内」と「関外」を結ぶ橋としてかけられ、ここに関門が設けられました。
その後、交通量の増加により丈夫な橋が必要となり1869年に新橋に。イギリス人技師リチャード・H・ブラントンの設計でかけられたこの新橋は、日本で最初に作られた橋脚のない鉄橋として「鉄(かね)の橋」と呼ばれ親しまれてきました。
ちなみに当時の開港場につながる関門は合計4か所。ほかに谷戸橋、前田橋、西ノ橋の3つがあるのですが、吉田橋が主要の出入り口だったそうです。
ところで「関外」はどこなの?
さて、吉田橋を隔てて港側にあたる「関内」に対し、その外側にある「関外」。野毛・初黄・日ノ出・伊勢佐木・元町・石川町・寿・不老町・浦舟町・阪東橋と日枝神社の周辺を「関外地区」と指すようです。
これら一帯はもともと海でしたが、江戸時代前期に材木商の吉田勘兵衛(よしだかんべえ)により開墾、埋め立てられ、その区域は「吉田新田」と言われています。この埋め立て事業は幾度にわたる大岡川の氾濫で困難を極めたそうで、横浜の発展の礎を築いた先人には感謝しなくては…と感じさせられます。
前出のハマっ子の友人に聞いたところ「吉田新田」や「吉田勘兵衛」は学校で習うそうで…。ハマっ子の間では名の知れた偉業・偉人なのですね。
日頃ざっくり「関内」と呼んでいたこの地域。その歴史をひも解くと、横浜の開港の歴史と固く結びついていることがわかりました。吉田橋を前に「この先が開港場だったのか~」なんて思うと、なんとも言えないノスタルジックな気分を味わえるものです。開港の街、奥が深い!
ところで冒頭にとりあげたJR根岸線関内駅の「かんないー、かんない、です」のホーム放送、アクセントが後ろにきていることにお気づきでしょうか?
わたしは日頃の会話で「関内」と発するときには「か」にアクセントを置くため、いつも若干の違和感を覚えていました…。今回の調査を経て、ひょっとしたら「関内」の由来に何か通じるものがあるのかも…!?と思い駅員さんをアポ無しで突撃。
駅員さんからの回答は、「いえ、特に何が正しいとかは無いと思います…」とのことでした(笑)。
ちなみに市営地下鉄関内駅のホーム放送は「か」にアクセントがきています。機会があればこの件についても調査してみたいなんて思った次第でした。