ゴールデンカップスのエディ藩(ばん)さんは5歳上の姉と同級生の幼なじみ、10代の頃に横浜のクラブや米軍キャンプなどでプロとして演奏を始めたという李世福さん。
その後、自身のバンドを結成してアルバムを発表し、80年代には俳優の松田優作さんや原田芳雄さん等に楽曲を提供。現在も、中華街の一角に位置するイベントスペース「李世福のアトリエ」を中心に積極的にライブ活動を続けています。
横浜の音楽シーンを知りつくした李世福さんに「横浜のロック」とはいったい何なのか尋ねてみました。
最先端の音楽をいち早く取り入れていた横浜のロック
- 多くのミュージシャンが特別な想いを込めて口にする「横浜のロック」とは、他所のロックと何が違うのでしょうか。
- このあたりには口の悪い人がいて『中区以外は横浜じゃない』ってくらいに言う人がいるんだよね。私はそういうことは言えないけど(笑)、たしかに横浜の中心といえば、このあたりなんですよ。
(李さんが子どもの頃)中華街には、メインの通りに中華料理屋さんがあって、外人バーがあったし、喫茶店もすごく多かったし、そこにアメリカの白人に黒人、アジアの人、そういう人たちがいたんです。
だから、外国の人を見ても違和感っていうものがまったく、なんにもなかった。外国の人がいて当たり前という環境でずっと生活していたんでね。
5~6歳の時だったと思うんですけど、PX(本牧にあった米軍基地内で食料品や日用品を売る店)に、米軍の人にウチの前から自動車で連れてってもらったんです。その時にストロベリーシェイクっていうのを買ってくれて。初めてあれを飲んだ時に、こんなうまいものがあるんだって、おいしさにびっくりしてね。
だから、よく『フェンスの向こうのアメリカ』っていいますけど、私にはフェンスの向こうっていう感覚がまったくなかったんです。
- 喫茶店や外人バーから流れるスタンダードジャズやアメリカンポップスを自然に受け入れて育った横浜の子どもたち。そして1960年代の半ば、ビートルズやベンチャーズのヒット曲とともにバンドブームが巻き起こりました。
- 中学1年生で初めてエレキギターを見た時も、あーかっこいいなあ、ぐらいの軽い感じで、衝撃的とかそんなではなかったんです。
たぶんエレキギターの存在は知らなかったけど、もうどこかでそんな音を聞いてたりしたんでしょうね。そのあたりが東京とか他所とは違うのかな。
音楽が体に染み込んじゃってたっていうのかな、ブームが来る前に。
- 横浜の少年たちは、クールに見つめながらも音楽の流行、ロックを確実にキャッチしていたようです。そして李さんは、兄といっしょに音楽活動を開始。エディ藩さん等の幼なじみも、気がつけばギターを手にしてバンドを始めていました。
- 当時のバンドのステージは、ベンチャーズを何曲かやって、ビートルズを何曲かやって、アニマルズやって、アメリカンポップスをいろいろやって…
誰かが『かっこいいなあ』という曲があると、じゃあそれ演やろうって、すぐにね。
ゴールデンカップス、パワーハウス、ほかにもいろんなグループがあったんですけど、最新の音楽を取り入れるのがみんな早かったですね。
まだ日本の他所では売ってないレコードでも、横浜ではPXで買って聴いていた。だから東京の人はびっくりしちゃうんです。たった1~2か月かもしれないけど、日本のお店に並ぶより早かった。その差が大きかったんでしょうね
- 東京のミュージシャンがまだ聴いたこともないアメリカのヒット曲、最先端の音楽を、横浜の少年達は当然のようにバンドで演奏していたんですね。
有名になりたくて演っていたわけじゃない
- スポーツが得意だった李さんは、中学時代に卓球選手として頭角を現し、高校でも卓球部に入部。ところが予期せずプロのミュージシャンとして活躍することになり、悩んだ末に卓球をあきらめてバンド活動を選んだそうです。
- 私は、純粋なアマチュアのステージは一度もやってないんですよ。最初は中学3年の時、12月の最初の日曜だったかな。ある会社のクリスマスパーティーで、兄貴とその友達と4人で演奏したんです。演奏を終えてから、パーティーのごちそう食べて、1万円のギャラが出て。私はそこから2,000円もらいました。
初めて人前で演奏してギャラをもらっちゃったんです。
パーティー会場のホテルまでドラムや機材を運ぶタクシーが80円でしたから、2,000円は大金ですよ。まだ15歳になってなかったですね。
高校1年の時は、兄貴たちと日曜日のたびにパーティーに行って、バンドのギャラが1万円だったから3人で分けてひとり3,000円。高校2年の夏休みは、木金土日と週4日間、その頃山下町にあったお店に出演してましたね。気分いいですよ、高校生のくせにそういう所で演奏してギャラもらっちゃってね。
お客さんはいっぱい来るし女の子はいっぱい来るし。よく『福ちゃんモテたでしょ』って言われるけど、俺だけがモテたってわけじゃなくてみんなモテたよ、どんな人でもモテたよ(笑)
- 中学生にしてバンドでギャラを稼ぐとは、すごい話です。横浜のロック少年たちは、こうして早くからプロとして鍛えられていったのかもしれませんね。
- やがて、横浜の音楽シーンに東京の芸能界が注目するようになり、デビューする仲間も出てきました。
- 桜木町から通学の東横線でいっしょだったミッキー吉野さん。
あの頃は吉野って呼んでましたけど、ある日いきなり『ゴールデンカップスに入るんだ』って言うんです。あの時は、よかったなあってふたりで喜びました。その後はテレビにも出ちゃうしね、なんかうれしかったですね、友達がばりばり活躍して。あの頃はメジャーデビューとか、そんな言葉もなかったけどね。
でも、ゴールデンカップスの人たちも、有名になろうなんて思っちゃいなかったと思うんです。
みんな音にしびれて、カッコいいから演ってただけで。でも大勢のファンやお客さんがついて、デビューすることになって。気がついたら、俺たちって有名になっちゃった、くらいにしか思ってないはずですよ。
- そして、あるGS(グループサウンズ)からスカウトの声がかかり、李さんにもデビューのチャンスが到来。ところが…
- 歌番組は好きだったし、GSの出るテレビ番組もよく見てました。GSのヒット曲も好きですよ、見るのは。
でも自分が演奏するのはちょっとね。いち早くジミ・ヘンドリックスの曲とか演やってましたから。聴く音楽と演奏する音楽は別なんです。
(スカウトされたのは)なんと言うバンドだったか、もう忘れちゃったけど、そろいのユニホームを着るなんてね、あんなヒラヒラした恰好はしたくないってね(笑)。
失礼なことは言いたくないから、その時だけは高校生っていう立場をうまく使って断ったんだ。まだ学校行ってるしさー、ちゃんと卒業しないといけないしさーってね。
でも、ゴールデンカップスに引っ張られてたら学校を中退してでも入ってたと思いますよ、ミッキー吉野さんみたいにね(笑)
- 『長い髪の少女』などヒットを飛ばしてからもテレビ出演の際にブルースやR&Bを演奏していたゴールデンカップスは、アイドル的な人気を集めていたGSの中では、ひときわロック色の濃いグループでした。
李さんのグループ加入には至らなかったものの、その後ゴールデンカップスのメンバーと李さんはさまざまな場面で音楽活動を共にし、現在も交流を続けています。
中華街の一角が横浜ロックのクロスロードに
李さんが活動の拠点としている「李世福のアトリエ」は、観光客でにぎわう中華街の通りから少し離れた一角にあります。
李さんの人柄が人を引きつけるのでしょうか、インタビューの間もいろいろな人がアトリエに立ち寄り、気軽に声をかけて行きます。
中華街で生活する人、子どもたち、働く人、そしてミュージシャン。その光景を見ていると、横浜が多様性の街、音楽の街であることを改めて認識します。
「李世福のアトリエ」では、毎週金曜の「トーク・アコギLIVE」をはじめ、ゲストミュージシャンを招いてのイベントも企画。ロック、フォーク、ブルース、ジャズ、GSなど、ジャンルの異なるミュージシャンや表現者がここで交流し、横浜の新たな音楽シーンを形作っています。
また5月20日には、横浜のロックレジェンドたちが赤レンガ倉庫のステージに大集結するイベント「横浜ロックレジェンド」に出演する李さん。
ライブ情報については「李世福のアトリエ」HPでご確認ください。
ロックし続ける李さんの毎朝のトレーニングと〝気〟
最後に、NHK新日本風土記「横浜中華街」で、気になっていたことを質問してみました。
- 空手のような動作をする李さんがテレビに映っていましたが、あれは健康法なのでしょうか。
- 午前中はだいたいトレーニングやってるんですよ。バンドマンは起きるのは昼過ぎっていうのが当たり前ですけど、私は昔から朝方なんです。サラリーマンみたいには早く起きませんけどね。
子どもの時にちょっと習った空手の動きとか、体操を取り入れて、起きてすぐにベッドで15~20分くらいトレーニング。
ブルース・リーの映画や千葉真一さんの映画で観た少林寺拳法を真似てみたりね。アレンジしてトレーニングします。
それからお祈りして、その後もう30~40分くらいやるんです。立ってフライングV(愛用のV字型のエレキギター)を弾いたりね。
ワンマンのステージは、だいたい2時間演奏するんですけど、それをこなせるように、トレーニングを毎日やるようになったんです。
- 少林寺拳法からアレンジした李世福オリジナルのトレーニングだったんですね。そして、重いエレキギターを肩から下げ、立って弾くトレーニング。なるほど、ロックし続けるには欠かせないトレーニングですね。
さらに李さんは、健康を維持するには〝気〟も大切だと話してくださいました。
- 人の不幸は蜜の味、って言うの?
私、その言葉はウソだと思ってるんです。なぜかって言うと、人のハッピーを願わないそれって、悪い〝気〟を持っていますからね。
だから私は、人の悪口大会をやってる所には、なるべく行かない。その場の悪い〝気〟が絶対に自分に入りますから。(逆に)どこかで良い〝気〟を入れれば、それは体に残っていくんです。
体と心の健康を維持して、ロックし続ける李世福さん。これからもステージから良い〝気〟をたくさん振りまいてくれることでしょう。