2016年6月18日(土)

【歴史探訪】ー横浜公園の地にあった遊廓のその後の足取りを追う

アバター画像 佐野 文彦

1866年の豚屋火事で焼失した港崎町の遊廓。しかし、火事の前に居留地外国人と取り交わした覚書によって、元の地に遊廓を再建することは叶わなかった。その為、遊廓は横浜市内を転々とした挙句、最後には今の真金町に定着し1958年まで営業は続けられていた。

港崎町の遊廓は、いずこへ

1859年の横浜開港時、幕府の命を受けて岩槻屋佐吉が開発整備した「港崎町の遊廓」。

出来てしばらくは、岩亀楼をはじめとする遊廓が絢爛豪華なたたずまいを互いに競い合い、開港地横浜の「裏の国際社交場」として賑わっていました。

しかしそんな港崎町の遊廓も、1866年の豚屋火事で消失。400人以上もの遊女が逃げ場をなくして焼死しました。

通常の施設ならば、焼失した施設はすぐに再建の工事がはじまります。

しかし港崎町の遊廓は、1864年に幕府と居留地外国人との間で取り交わされた覚書によって、元の場所には作れなくなってしまいました。

その「元の場所」は、現在の横浜公園ですが、「元の場所」にあった港崎町の遊廓は一体どこへ行ってしまったのか。

遊廓の羽衣町への移転

今の横浜公園にあった「元の場所」を追い出された遊廓は、派大岡川を渡った「関外」すなわち吉田新田に入ったすぐの場所、今の羽衣町あたりに作られました。

これが羽衣遊廓の始まりです。しかし当時は吉原遊廓と呼ばれていました。

横浜明細全図

横浜明細全図 再版_部分(横浜市中央図書館所蔵)

図中の下側3分の2は今の関内。そして、その左半分が外国人居留地で、右半分が日本人町です。

上側にあるのがいわゆる「関外」。今の伊勢佐木町や羽衣町あたりですが、ちょうど伊勢佐木町から羽衣町に渡る一体に遊廓のような大きな四角の区画がありますね。

これが羽衣遊廓です。ここを拡大すると下の図のようになってました。

横浜明細全図2

横浜明細全図 再版_部分(横浜市中央図書館所蔵)

何と、羽衣遊廓は「吉原遊廓」と呼ばれていたようです。

「銀座」と名の付く場所が日本中至る所にあるように、「吉原」と呼ばれる遊廓もそれなりにあったのかも知れません。

地図をよく見ると、港崎町の遊廓にあった楼閣の名前もいくつもあります。何と左上の角に大きなスペースを使って、「岩亀楼」もありました。

岩亀楼は何とか規模も大きいままに、この「吉原遊廓」に移れたようです。

また火事、また移転、そして…

こうして再起した遊廓ですが、当時の日本家屋はやはり火事には弱かったようです。せっかくの遊廓も、残念ながら1871年に再び火災で焼失してしまいました。
また今度も別の土地で遊廓を再興しようという話もあったそうで、その候補が今の南太田あたりだったそうです。

しかし、

  • 当時の南太田一体に遊廓を造成するには、山を切り崩す必要があったこと
  • 二度も遊廓を焼失してしまった遊廓主に、山を切り崩すほどの財力はなかったこと
  • ちょうど1871年ごろに今の高島町が埋め立て造成されたこと

これらのことがあり、焼け出された遊廓主が高島町造成地の施主と交渉して示談をまとめ、政府の許可をもらって、高島町の地に遊廓を移したそうです。

こうして1872年、ちょうど吉原遊廓が焼失した翌年に、岩亀楼などの大型遊廓は高島町に移りました。

それが運が良かったのか悪かったのか、この年東京(汐留)~横浜(桜木町)間に日本初の鉄道が開通。何と、この鉄道は高島町の遊廓の真ん中を通るという問題に直面させられることになりました。

これを予測できなかった神奈川県令も問題あると思いますが、遊廓は立場が低かったのでしょう。高島町遊廓の営業を1882年までと、期限を切られてしまいました。

こうして次に移る場所になったのが、今の真金町付近。あの桂歌丸師匠の生家のところです。1880年頃から、ここの遊廓の地は稼働を始めました。

ここの遊廓の記載がないかどうか、当時の地図を探してみました。

新撰横浜全図

新撰横浜全図 再版_部分(横浜市中央図書館所蔵)

ちょうど図の真ん中一番上あたりに、遊廓があったそうです。そこを拡大してみましょう。

新撰横浜全図2

新撰横浜全図 再版_部分(横浜市中央図書館所蔵)

図中からは「遊廓地」の他に「マガネ丁」「エイラク丁」の文字を読み取ることができます。「マガネ丁」は大きな堀の内側ですが、「エイラク丁」は堀の外にあります。

でも、遊廓はそこにもあったのでしょう。

真金町の遊廓は当時は永楽町と真金町にまたがる区域にあったので、「永真遊廓」と呼ばれてました。ただ、そこにはもう「岩亀楼」の文字はありません。もう書かなくなってしまったのかも知れません。

その後について調べてみたところ、岩亀楼は高島遊廓にあるうちに経営的窮地に陥り、巻き返そうという途中に岩亀楼創業者の佐吉(佐藤佐吉と名乗っていた)氏が、病に伏してしまいました。

そこで後継者が巻き返しを図り、永真遊廓の稼働から遅れること2年後の1882年に、岩亀楼も移転を完了し、稼働できるようになりました。

しかし稼働の翌年に創業者佐吉氏が逝去。さらにその翌年1884年の台風で、岩亀楼は壊滅的被害を受け、ついに1884年9月15日に廃業となってしまったそうです。

現在の永真遊廓は…

この遊廓の移転について、やはり実際の跡地を探索せずにはいられません。すぐに跡地を追いかけることにしました。

まずは羽衣町の遊廓。

ここは1871年の火災以来遊廓というものがなくなり、ごく普通の商店街しか残っていません。しかし、この場所がもともとは遊廓だったということもあるせいか、風俗系の店がたくさんあることは、せめてもの説明に付け加えておきます。

なお、羽衣町の後に移転した先は高島町。高島町にあった遊廓については、またの機会にまわすことにしましょう。

 
そして、真金町にあった「永真遊廓」。

こちらは1958年に施行された「売春防止法」によって、まず「赤線」と呼ばれる合法風俗地帯がなくなってしまい、その結果、この真金町のところから遊廓そのものもなくなってしまいました。

しかし1958年に法律によって、あるいは警察の取り締まりによってなくなった遊廓なので、何かしらの痕跡は残っているかもしれません。

ということで、今回も現地を調べてみました。

謎の、中央分離帯だけ目立つ通り

謎の、中央分離帯だけ目立つ通り

ここの通り、片側一車線なのですが、中央分離帯がずいぶん立派です。もしかしたら、遊廓の中央通りだったのかも知れません。

ここを真っ直ぐ歩くと、こんな看板がありました。金刀比羅大鷲神社です。

金刀比羅大鷲神社へ導く案内看板

金刀比羅大鷲神社へ導く案内看板

そういえば、この金刀比羅大鷲神社、現在は酉の市で有名な神社だそうですが、横浜公園にあった港崎町の遊廓地図にも記載されてました。また、羽衣遊廓にもその存在はあったそうです。

どうやら、遊廓の移転とともについてきた神社のようです。だとすると、先ほどの通りは遊廓の中央通り、すなわち大門のある通りだったのかも知れません。

 
さて、その中央通りを真っ直ぐ神社の方向に向かって歩いていくと

遊廓を彷彿させる、雨戸の戸袋

遊廓を彷彿させる、雨戸の戸袋

一見普通のアパートなのですが、とても風格のある雨戸の戸袋です。おそらく、遊廓の遺構なのかもしれません。雰囲気があります。

さらに進んでいきますと、ありました。金刀比羅大鷲神社です。

金刀比羅大鷲神社入口

金刀比羅大鷲神社入口

神社と道路を分ける塀には、おそらくこの神社に寄進をされた方々のご芳名が書かれてますが、この中にあの有名なお方の名前もありました。

歌丸師匠!

歌丸師匠!

この町でお生まれになられた方と知られてますし、粋だと思います。あと、この石塀の端っこに、ここが遊廓だったという決定的な証拠を見つけました。

遊廓!

遊廓!

威風堂々と「遊廓」という文字が入っています。

この神社は何と横浜橋商店街のすぐそばにありました。

大鷲神社の前の道をしばらく歩くと、道が急に90度左に折れ、その角の右側にはこんな建物がありました。

昭和の情緒が深い、横浜橋市場のアーケード

昭和の情緒が深い、横浜橋市場のアーケード

それは「横浜橋市場」。

横浜橋商店街から少し元「遊廓」の方に突き出している、昭和の香りをプンプンにおわせる看板がありました。
 
あと真金町の遊廓跡地には、先ほどの大門のあった通りの他にも、遊廓の内外の境界部部分にも、ご覧のような道路、片側一車線だけど立派な中央分離帯のある道路がありました。

遊廓の内外を分け隔たるお濠があったのかも知れない

遊廓の内外を分け隔たるお濠があったのかも知れない

一説によると、真金町の周縁部にあるこの通りは、遊廓の内外を分け隔たるお濠を埋め立てたものだということだそうです。

今日も賑わう横浜橋商店街ですが、すぐ近くに、横浜公園から羽衣町、高島町と流れに流れてたどり着いた遊廓があったんですね。

きっと当時は絢爛豪華なだったのでしょうが、今は跡地にひっそりと遺構が佇むばかりでした。

横浜橋商店街

横浜橋商店街

この記事の著者

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佐野 文彦博士

滋賀県で生まれ、学生時代を福井で過ごす。社会人になってからは、横浜を生活拠点としている。本業の傍ら、ジャズやゴスペル・ファンクなどでサックス演奏や、コーラスグループでの合唱活動も行っている。横浜が自分の歌や演奏で満ち溢れるといいなどと、大風呂敷な夢を持ち歩いている。彷徨うような街歩きが大好き。

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