2016年5月19日(木)

【歴史探訪】ー横浜公園の地にあった『岩亀楼』の足跡「その1」

アバター画像 佐野 文彦

現在の横浜公園の場所にはその昔遊廓があり、あたかも東京の吉原のような賑わいがあったのはご存じか? 今回はその遊廓の足跡(そくせき)が今でも残る場所を訪ねてみました。そこは横浜公園一帯の喧騒から取り残されたような、ひっそりとした場所でした。

横浜公園

正式名称も「横浜公園」というこの公園は、「横浜スタジアムのある公園」と言えば、横浜市民でなくても、少なくともプロ野球や高校野球が好きな方は、

「あぁ、あそこ!」

と、すぐに思い出せる場所ですね。

毎年の春から秋にかけてのプロ野球シーズンでは、横浜DeNAベイスターズのホームゲームが行われます。

その時は、球場の内外を問わず、熱烈な応援団の人々が羽織るユニホームのおかげで、公園一帯がベイスターズ・カラーや対戦チームのカラーに溢れ、さらには応援団の太鼓やラッパ・観客の大歓声がこだまして、それはそれはの大賑わいになります。最近は球場の外でもパブリック・ビューイングで試合を観れるようになったので、大賑わいの度もより大きくなりました。

もちろん行われる試合はプロ野球だけではなく、高校野球の県大会・都市対抗野球の予選などアマチュア野球の試合も行われ、特に高校野球の県大会開会式の日は、球場の外に高校球児が沢山待機するので、その日の公園全体は「若くて清々しい」空気に満ち溢れます。

それこそ足の踏み場もないくらいに。

さらには、横浜スタジアムでは野球だけでなく、有名ミュージシャンのコンサートやレゲエのイベントもしばしば行われますので、その日は公園一帯が音楽三昧。野球が行われているときとは全然別の音や空気に溢れます。

また球場の外でも、定期的なバザーやお祭りイベントがあり、その都度大賑わいになります。毎年4月には公園の花壇にたくさんのチューリップが咲き乱れ、そのときも花を愛でる観光客で一杯になります。

球場の内外でイベントなどのないときはどうなのでしょうか。そんな横浜公園も、晴れた日には市民の憩いの場・ちょっと一休みの場に使われたり、朝夕に通勤する人々の通り道になったりと、ひっそりと静まり返るときは深夜や早朝くらいしかないのではと思うくらい、人の流れの多い公園です。

横浜スタジアム

ちょっと雰囲気の違う場所が…

そのような横浜公園ですが、奥の方に一か所、普段からも比較的静寂に包まれた場所があります。公園の中の中華街入り口寄り、中区役所のお向かいあたりに、それは静かにたたずんでいました。

岩亀楼①

横浜公園は洋風公園なのですが、この一角だけ日本庭園的なレイアウトになっています。奥には日本庭園的な池もあり、日本的な情緒が豊か。

その中でも、全体を竹を縛ってしつらえた、小さな門構えが建っているところがあり、一体なんだろう?と思わせるところがありました。

本当に、ここは一体何なんだろう?

岩亀楼②

ここの門をくぐると、本当に異界に入ってしまいそうですね。
ここは一つと、意を決して門をくぐってみました。

水琴窟

水琴窟

中に入って目を引いたのは、この水琴窟(すいきんくつ)。近くにそれを説明する看板が立ってました。

竹の水管と水たまりのある手水鉢、さらにはその手前に敷設してある大小の石すべてを含めて蹲踞(つくばい)と言って、昔の人は茶席に入る際、ここで手を洗って入ったそうです。

ふむふむ。

で、水琴窟。水琴窟は、蹲踞で手を洗う際、ただただ洗った水が地下にしみ込むだけでは面白くないということから、

  • 洗った水の一部が小さな穴から地中の空洞に落ち、
  • 落ちたときの音が空洞の壁に反響して、
  • 水の落ちた空洞の穴あら反響音が漏れ聞こえる

というシステムを構築して、あたかも琴の音のように聞こえる音を楽しまれたのでしょう。江戸時代の日本で発明された、とても風情のある技術のようです。

すごい!

でも、なんでここに水琴窟があるのだろう?

遠い昔に、この場所に、水琴窟があって相応しいものがあったのではなかろうか?
この水琴窟および蹲踞、さらには竹の門は、その記憶を消さないために作られたものではないのだろうか?

ますます物思いに耽ってしまいそうです。ふと水琴窟の近くに目をやると、そこには石灯籠が…

石灯籠

怖いぞ怖いぞ、夜になると石灯籠の脇から何か出てきそうだぞ…
脇に生えてる樹なんか、くねくねと動きそうだし…

横浜公園にしてはあまりに意外なものが、3つも続けて出てきましたので、ついつい狼狽えてしまいましたが、心を鎮めてこの石灯籠を観察してみました。

何か飾り模様もあったり、庇が少し反っているので、ここには料亭でもあったのだろうか?

灯篭の柱に漢字3文字書いてある。何々、岩・亀・楼、岩亀楼。

岩亀楼ってなんだろう?

すぐ近くを見ると、看板がありました。看板を要約すると

  • 岩亀楼とは、昔ここにあった「国際社交場」の名前
  • 「国際社交場」は幕末の横浜開港時に、このあたり一帯の太田新田の沼地をさらに埋立して作られた港崎町(みよざきちょう)という街に、何棟も建てられた
  • 「国際社交場」は慶応2年の豚屋火事で焼失
  • 焼失した跡地は、在留外国人の要望で公園として再生された
  • 岩亀楼は、その後数回移転した後、明治17年に廃業
  • この石灯籠は、納められていた南区の妙音寺から開港資料館に寄贈された

きっと岩亀楼という「国際社交場」は、在留外国人には好まれなかった類の施設だったのかも知れません。

岩亀楼および横浜公園の敷地が、幕末から明治に至るまでの間、どのように変遷したのか確かめてみたくなりました。(つづく)

※この記事は、後編に続きます。

この記事の著者

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佐野 文彦博士

滋賀県で生まれ、学生時代を福井で過ごす。社会人になってからは、横浜を生活拠点としている。本業の傍ら、ジャズやゴスペル・ファンクなどでサックス演奏や、コーラスグループでの合唱活動も行っている。横浜が自分の歌や演奏で満ち溢れるといいなどと、大風呂敷な夢を持ち歩いている。彷徨うような街歩きが大好き。

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