横浜スタジアムから海に向かって横浜開港資料館まで伸びる、幅36m、長さ400mの街路「日本大通り」。 美しいイチョウ並木と沿いに立ち並ぶ歴史的建造物が、まるで外国のような雰囲気を醸し出していて、ドラマや映画のロケ地としても有名な場所です。
横浜散策をしているときも、雰囲気が素敵なのでよく歩くこの通り。他の通りに比べて道幅も広く、整備されていますよね。これにはいったいどんな理由があるのでしょう?
関内好きとしては知らないまま終わるわけにはいきません!
そこで、「日本大通り」のはじまりから現在に至るまでの歴史を調べてみました。
日本で初めての西洋式街路
調べてみたところ「日本大通り」は、なんと日本で初めての西洋式街路だということが判明!イギリス人技師ブラントンの設計により明治3年(1870)に完成したそうです。
作られたきっかけは、慶応2年(1866)に起きた大火災。日本人街(現在の末広町)にあった料理屋から出火した火の手は勢いを増し、日本人街の約3分の1、外国人居留地の4分の1が焼失。
この火災で防火意識を持った外国人が、関内エリアの復興にあたり、幕府に災害に備えた近代的な都市づくりを要求したことがはじまりでした。
要求を受けた幕府はイギリス、アメリカ、フランス、オランダの領事と協議の上、開港場にふさわしい都市復興計画をまとめることになりました。内容はこんな感じ。
- 火災の拡大を防ぐため、建物が密集した街のつくりを避ける
- 防火帯として機能を備えた広々とした道路と公園を整備する
この計画で作られたのが「日本大通り」と現在の横浜公園。道路の両側には植樹帯が設けられ、日本初の近代的な道路となりました。完成した当時は、人力車や車が行き交う街のメインストリートとしての役割を果たしていたんだとか。
2度の整備
その後、「日本大通り」は2度にわたる大きな整備が行われています。1度目は、大正12年(1923)の関東大震災の復興整備。36メートルの幅員を持ち、両側に3mの歩道、9mの植樹帯を備えた通りは、22mの幅員、歩道は植樹帯も含めて7mに削られてしまいました。
時は流れてサッカーワールドカップの決勝戦が横浜で行われた平成14年(2002)。海外からの大勢の人を受け入れるため再整備されることに。車両の幅が狭められ、完成当初の幅員に近い13.5メートルの歩道と植樹帯を取り戻すことができました。
今ではカフェやレストランが立ち並び、冬にはクリスマスのイルミネーションが楽しめる、横浜散策では外せない場所です。季節や時間によって表情が変わるので、いつ来ても違う気分で楽しめます。
夏にはテラス席を用意するカフェも多い「日本大通り」。素敵なオープンカフェで歴史に思いを馳せてみませんか?