2015年1月19日(月)

ヨコハマの川と橋の歴史を刻む~地元民の憩いの場「大通り公園」

アバター画像 岸野 ちほ

もともとは横浜開港の折に完成した埋め立て地「吉田新田」の運河だった「大通り公園」。時代の変化とともにその姿を変えていきました。地元民の憩いの場になっているこの公園の歴史を紐解くと、橋や川を愛した地元の人たちの思いも垣間見ることができます。

「大通公園」といえば、雪まつりで有名な札幌のあの公園ですが…。

そうです、ありますよ、関内にも「大通り公園」が!

ゆったりとした空気の流れる、地元民の憩いの場

JR関内駅から旧阪東橋を結ぶ帯状のこの公園は、長さ1.2km、総面積3.6ha。

公園内は「石の広場」「水の広場」「緑の森」の3つのゾーンに分かれていて、各ゾーンには1点ずつ彫刻の作品が設置されています。中には「考える人」で知られるオーギュスト・ロダンの作品も。

オーギュスト・ロダン

観光地として有名な公園とは異なり、犬の散歩やジョギング、はたまた日なたで昼寝を楽しむ人たちなど、地元の人たちが過ごす、穏やかな空気を感じられる場所です。

大通り公園

さて、この「大通り公園」、どうしてこの地にこのような帯状の細長い形でつくられたのかをご存じでしょうか?

江戸時代までさかのぼる「大通り公園」の由来

大通り公園周辺は、江戸時代の材木商であった吉田勘兵衛(よしだかんべえ)が開墾した埋め立て地で、「吉田新田」と呼ばれていました。

横浜港が開港した明治時代になると新田では、水陸の交通の便を良くするために運河の開削事業が進みます。いくつもの開削や埋め立てが行われる中で、明治29年に吉田川を延長した新吉田川が誕生しました。

時代の流れとともに、運河は人々を癒す緑地へと変貌

戦争や高度経済成長を経て発展を加速させた港町ヨコハマ。運河は次第にその役割を失っていきます。

吉田川・新吉田川も昭和48年からの工事で埋め立てられ消滅し、昭和53年に「大通り公園」として生まれ変わったのです。

伊勢佐木長者町駅に残る歴史のかけら「橋の詩」

吉田川・新吉田川には当時、関内駅方面から蓬莱橋 – 権三橋 – 鶴之橋 – 千秋橋 – 山吹橋 – 武蔵橋 – 長島橋 – 横浜橋 – 阪東橋 – 日本橋の順番で、10の橋がかけられていました。

昔をしのぶ地元の人々からの要望でこれらの橋名が刻まれた橋名板を保存し、記念レリーフとして設置されたのが、市営地下鉄ブルーライン伊勢佐木長者町駅の改札外にある「橋の詩」です。

記念レリーフ①

橋名板には、今は無きその名がしっかりと刻まれ、横浜発展の歴史をも感じさせられます。

記念レリーフ②

公園ひとつとっても奥深い、横浜・関内。

「大通り公園」は、その地の歴史を尊び、地元を愛する人々の思いまでも感じることのできる場所でした。

この記事の著者

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岸野 ちほ副編集長

九州生まれ九州育ち。学生時代を横浜で過ごし、横浜を第二の故郷と呼んでいる。ハマスタでアルバイトをしていたことがきっかけでベイスターズファンに。ファン歴は10年。

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