川越から横浜へ…、生糸商人吉田幸兵衛氏の足跡を追ってみました

横浜を発展させた商人たち

1859年に横浜が開港した直後から、日本中から多くの商人が成功を夢見て集まりました。

その中の多くは生糸を海外に輸出する「生糸売込商」と呼ばれる商人で、開港当初には100軒以上営業したようです。

しかし当時の「生糸売込商」は、生糸生産者から生糸を大量に買い取って、外国商館などに販売する方法を取っていました。この方法は、生糸相場による価格の乱高下の影響を強く受け、多くの商人が破産や廃業をしてしまい、開港4年後の1863年には33軒まで減少してしまいました。

その一方で、独自の営業方法を編み出すことに成功し、「大売込商」として発展した商人も17軒現れます。

その中でも特に栄えた数軒の豪商、三渓園を造営した原家を末裔とする原善三郎氏、伊勢佐木町で栄えた野沢屋(横浜松坂屋)の元を設立した茂木惣兵衛氏と並び、吉村屋という名前で横浜市を発展させた吉田幸兵衛氏がいました。

本記事では、吉田幸兵衛氏の偉業・足跡について紹介をします。

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横浜開港見聞誌(本町五丁目石川生糸店之図)横浜市中央図書館所蔵

吉田幸兵衛氏の生い立ちと業績

吉田幸兵衛氏は1836年に上野国山田郡大間々町、今の群馬県みどり市に生まれました。

吉田家は代々富農の家柄でしたが、吉田幸兵衛氏は分家の長男だったそうです。家は農業の他に商業や金融も手掛けており、幸兵衛氏も十代終わりごろより糸繭商を始め、家の手伝いをしながら商売のノウハウを身に着けていきました。

一方吉田幸兵衛氏は、世の中の新しい流れをキャッチすることに長けていたようで、1859年に横浜が開港するといち早く横浜に生糸を出荷し、「生糸売込商」として名乗り出ました。

商売は大繁盛し、1861年に、当時の上野国南部を管轄していた川越藩の御用商人に認定され、川越藩特産の生糸「前橋糸」や「上州糸」を優先的に取り扱うことが出来るようになったようです。

吉田幸兵衛氏はこれら生糸の取引で、年間15,000両の手数料利益を上げました。

そして翌年の1862年、吉田幸兵衛氏は吉村屋の営業権を受け継いで「吉村屋幸兵衛」と名乗り、横浜関内弁天通りに生糸売込商として開店します。

吉村屋は1863年に残っていた生糸売込商33軒のうち、売上の大きい「大売込商」17軒の中に入りました。さらに1864年に生糸売込商が「仲間組合」を結成し、吉田幸兵衛氏はその総代6名の中の一人に選ばれます。

すなわち吉田幸兵衛氏は、幕末開港時の横浜を支えた商人たちの代表に選ばれていたのです。まだ年齢としては20代半ばだったのですが、すでに横濱経済界の重鎮になっていました。

ところで、吉田幸兵衛氏すなわち吉村屋の営業方法は、従来行われていた方法とは別の方法を取っていたようです。

幕末開港時における「従来の」生糸売込商の営業方法は、自己資本を投下する形で生産者から大量に生糸を買い込み、それを外国商館などに裁く方法を取っていました。この方法は、生糸の市場価格が乱高下すると経営に直接大きな影響を及ぼしたそうです。それ故、多くの生糸売込商が破たん・廃業を余儀なくされてしまいました。

ところが、吉田幸兵衛氏が率いる吉村屋は「委託販売」の方法を採用していました。自分が直接生糸を買い付けるのではなく、生糸生産者を荷主として販売先である外国商館に紹介し、生糸生産者に直接販売をさせて吉村屋は仲介手数料を取るという方法です。

この方法であれば、生糸の市場価格の乱高下の影響を受けにくく、着実に手数料収入を得られたそうです。吉田幸兵衛氏は1865年ごろよりこの方法を開始し、1868年には年間の売り上げが100万両に達したそうです。

そうして時代は明治の代になりました。

吉村屋は明治政府より「横浜商法司為替御用人」という役職に任じられ、政府発行の「太政官札」の買い付けを命じられていたようです。横浜の大商人になっていたので、「太政官札」の信用を上げるために半ば強制的に買わされていたようです。

その代わり、1869年には「横浜通商為替会社」の頭取に任じられました。

この会社は明治政府によって作られた半官半民の会社で、東京・大阪・京都および横浜や神戸などの開港場など、全国に9か所開設されました。これらは日本全国の商業と金融を統制するためのもので、主に幕府の御用商人とされていた人たちが任ぜられていました。弱冠33歳の吉田幸兵衛氏としては、ものすごい出世ではなかったかと思います。

明くる1870年にはその頭取の立場から、伊藤博文を団長とする「金融制度調査団」の団員に加わり、渡米して先進国の状況を調査してきました。

吉村屋の勢いは、幸兵衛氏のこのような業績も相まってますます大きくなり、1871年には群馬県の「上州糸」全体の34%を吉村屋だけで取り扱うまでになったそうです。

そして1872年には、横浜市に「第二国立銀行」を設立することになり、吉田幸兵衛氏はそこの大株主として列せられることになりました。吉田幸兵衛氏は、横浜の経済界においてなくてはならない存在になったのです。

そして、吉田幸兵衛氏をはじめとする生糸売込商の活躍により、横浜港の生糸輸出高は、神戸など他の貿易港の追随を許さないくらい抜きん出るようになりました。

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横浜史料 開港七十年記念(吉田幸兵衛生糸預証)横浜市中央図書館所蔵

しかしながら世の中の流れが変わるにつれ、吉田幸兵衛氏にとって向かい風が吹くようになり、さまざまな苦しみに遭うようになります。

まず1867年に立藩した前橋藩が、悪化している藩の財政を立て直すために、1869年に藩営の生糸売込商を横浜に開設しました。これにより「前橋糸」は前橋藩の専売になってしまったのです。

いくら吉村屋が大きくなっているとはいえ、郷里の川越藩の隣接藩である前橋藩がいきなり競争相手になり、大いに苦しめられたようです。この状態は1872年の廃藩置県まで続きました。

さらに1870年には欧州で「普仏戦争」、すなわちプロイセン王国(ドイツ)とフランスとの間に起きた戦争により、横浜の外国商館が一時的に生糸取引を見合わせてしまいました。

このことにより、横浜は開港以来最大の不景気に陥ってしまい、生糸売込商はすべて赤字経営になってしまったそうです。この翌年吉村屋の「上州糸」取り扱いが34%になったのは、このとき倒産した「上州糸取り扱い商人」たちの分も引き取ったからなのかもしれません。

そして1873年には、横浜に官営の「生糸改会社」が設立されてしまいました。これにより国の会社とも競争しなければならなくなりました。

このような「藩専売」会社や官営会社の登場、戦争などの海外の事情により、市場のようすが変わっていったようです。

1876年ごろより、取り扱う生糸を今までの「上州糸」から奥州の方まで手を広げ、新しい流通経路を開拓する必要が出てきました。生糸の製法が江戸時代までの「座繰糸」方式から、西洋より伝来した「器械糸」「改良座繰糸」方式に転換されたのも、新しい流通経路開拓をする理由になったようです。
この試みは1879年まで続けられたようですが、1879年に突如渋沢喜作氏に吉村屋の営業権を譲渡してしまい、引退してしまいます。新しい流通経路開拓に対応しきれなかったという説もあるそうですが、多くが謎となっているそうです。

その後の吉田幸兵衛氏は、住所を関内の弁天通二丁目から本町六丁目に移しましたが、晩年は東京日本橋の方に引っ越して、隠居生活を送られていたそうです。

そして1907年に、気管支の病気で逝去されました。

終わりに、吉田幸兵衛氏が残したもの

元々は、今の埼玉県にあった川越藩の御用商人だった吉田幸兵衛氏ですが、幕末開港後の横浜で一大商人として活躍し、様々なものを後世に残しました。
明治初旬の横浜都市開発に必要なインフラ整備は、吉村屋をはじめとする横浜の大商人が資金提供を買って出たそうです。つまり、初期横浜の「まちづくりスポンサー」という役割だったのですね。

さらに吉田幸兵衛氏は、明治初旬における横浜の歴史を、商人の目線から克明に記録しました。これらの記録は、幕末から明治にかけて横浜で活躍した生糸売込商の、活躍の実態を解明するのに大いに役立っています。

その一方で吉田幸兵衛氏は、出身地である川越藩にも西洋の文明を直接伝えました。1870に「金融制度調査団」として渡米した折、数多くの西洋文明の利器を持ち帰り、まだそれらが物珍しかった川越藩に持ち帰ったそうです。

もちろん文明の利器を持ち帰っただけでなく、吉田幸兵衛氏をはじめとする横浜商人の活躍が、川越藩や前橋藩をはじめとする群馬県の絹産業発展に貢献し、2014年にユネスコ世界遺産に指定される土台を作りました。

最後に一つ、吉田幸兵衛氏の残したものとして忘れてはならないものは、「横浜生糸検査所」です。

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現在北仲通地区に立っている「横浜第二合同庁舎」は、1926年に再建された「横浜生糸検査所」を引き継いだものです。「再建された」ということはつまり、1923年の関東大震災で倒壊してしまったからなのですが、その前にあった「横浜生糸検査所」は、1896年に今の本町通りと日本大通りが交差する辺り、横浜地方検察庁のあるあたりに建設されたそうです。

この「横浜生糸検査所」は官営で建設された役所で、元々は1873年に官営で設立された「生糸改会社」が、1877年に「生糸検査所」として検査業務をおこなってきました。

吉田幸兵衛氏は、生糸検査所設立にも多くの協力をされたそうです。

今の「横浜生糸検査所」の建物は、吉田幸兵衛氏が手掛けたものとは後の時代の建物ですが、ここの前に立つことで、明治初期に横浜で活躍した数多くの生糸売込商の熱い思いを感じてみるのもいいのではないでしょうか。


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この記事の著者

佐野 文彦

佐野 文彦博士

滋賀県で生まれ、学生時代を福井で過ごす。社会人になってからは、横浜を生活拠点としている。本業の傍ら、ジャズやゴスペル・ファンクなどでサックス演奏や、コーラスグループでの合唱活動も行っている。横浜が自分の歌や演奏で満ち溢れるといいなどと、大風呂敷な夢を持ち歩いている。彷徨うような街歩きが大好き。

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