青い空広がるよく晴れた金曜日、時計の針が正午をまわるころ、単調な蝉の声だけが外部から伝わり聞こえていた礼拝堂内に、オルガンの音が静かに流れ始めた。
12時5分、鐘が鳴らされた。毎月第三金曜日に開かれる「昼休み礼拝」開始5分前の合図だ。
横浜港大さん橋へ向かう手前、開港広場に尖塔を持つ真っ白な建物が現れる。ペリー来航から19年の年月を経て誕生した、日本初のプロテスタント教会、横浜海岸教会だ。
現在の姿は1933年(昭和8年)モダン・ゴシック風に再建された2代目で、1989年(平成元年)に横浜市の歴史的建造物の認定を受けている。
2014年12月に改修工事が完了したばかりであることから、純白にも近い清楚な佇まいと、空を差すように伸びるモチーフを持つ窓、その先の尖塔を眩しく見上げていると、すがすがしい気持ちになってくるのだから不思議だ。
礼拝堂内を訪れると、壁は潔く白く、華美な装飾がみられない内装から、がらんとした学校の講堂を思い起こす。
その空間に施された簡素な装飾は、のびやかに上へ、「信者の祈り、天へ届け」とばかりに導いているようにも感じられる。
とは言え、情報が乏しかったであろう未開の地・日本へ、現代とは異なる航海技術に身を委ねて渡航してきた宣教師たちへの情熱に、宗教を超えた敬意が生まれてくる。
この横浜海岸教会の前身となった「外国人のための礼拝所・日本人のための英語教場」で、日本人に英語を教えていたJ.H.バラ氏もそのひとりだ。
バラ氏が指導していた学生のひとりであった篠崎桂之助氏ら9名が受洗、日本基督公会を設立したのは1872年(明治5年)のことだった。
ただし、このときはまだ江戸時代のキリシタン禁制が引き継がれたままであった時代。命を懸けた洗礼だったことは想像に易い。
この後もJ.H.バラ氏の尽力が功を奏したのは日本人信者を増やしただけではなく、1875年大会堂が献堂されるに至り、同時に「日本基督横浜海岸教会」と改称された。
この大会堂は1923年(大正12年)9月1日関東大震災により倒壊、焼失してしまったが、2年後の木造仮会堂を再建、関東大震災から実に10年を経過した1933年に現在の姿となって献堂された。
第二次大戦中にはキリスト教弾圧や、国家総動員法に基づく武器製造のための金属回収令から鐘を守ろうと、当時の渡辺牧師は警察署留置に耐えた。他方、横浜大空襲の際には身を挺して焼夷弾から建物を守り、延焼の食い止めを行い、現在の会堂の姿をとどめることに文字通り献身している。
戦後には進駐軍に教会建物が接収され、米軍が使用しない時間帯に礼拝を行うなど、現代では想像もつかないほどの労が費やされたに違いない。
12時10分、J.H.バラ氏が仮牧師として務めを果たして以来10代目にあたる上山牧師による礼拝が始められる。静寂に包まれた教会には不思議と蝉の声も今は届かず、上山牧師の声だけが聴こえている。
プロテスタントの考えでは『人々の集まるところに教会はあり、聖書は読まれている』と言われているそうだ。
会堂建物自体に神格化された神々しさは感じない。しかし、そこに集まる人々の心にこそ、信じる神が存在する”場”があるのかもしれない、と感じつつ、この教会を後にした。
施設データ
- 横浜海岸教会
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- 横浜市中区日本大通8
- TEL:045-201-3740
- 礼拝堂の一般公開と昼休み礼拝