2016年5月26日(木)

【歴史探訪】ー横浜公園の地にあった『岩亀楼』の足跡「その2」

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アバター画像 佐野 文彦

絢爛豪華な岩亀楼

先ほどから紹介している、佐吉が主人の「岩亀楼」。それはそれは豪華な遊廓だったようです。

いわゆる横浜絵には、この「岩亀楼」を描写したものも数点ありました。今回はその中の一点を紹介します。

横浜岩亀見込之図

横浜岩亀見込之図(横浜市中央図書館所蔵)

浮世絵・横浜絵としての大袈裟さはあるのかも知れませんが、広い廊下に高い天井、太い柱が何本も立っていて、まるで重厚な寺院のようです。

それでいて中庭には池もあります。きっと錦鯉も飼われてたのでしょう。

池には朱塗りの立派な太鼓橋が架けられ、中庭の景観もそれは豪奢なものだったと思われます。

中央奥の襖の向こうでは、日本人と思われる男性が踊ってる様が伺えます。が、画面左奥の花頭窓の向こうには、様式の客室があるようで、西洋人がもてなしを受けてるようです。

このように岩亀楼の華やかぶりは、ベルサイユ宮殿の鏡の間までとは行かないものの、豪華さは引けを取らず、派手な扇子の絵柄を敷き詰めた襖をあしらえた、大きな花頭窓がいくつも並んだ大廊下が描かれた絵もあります。

その絵では、実際に大きなシャンデリアが吊るされてたようです。この豪華さは横浜の内外で大きな話題となりました。

「岩亀楼」は夜の営業だけでは飽き足らず、昼間は観光スポットとして、座敷に見料を取って一般見物客を入れていたのことです。

ところで、先ほどの絵からも判明しましたが、「岩亀楼」をはじめとする港崎町の遊廓は日本の商人だけではなく、外国人賓客を招待する場所にも使われていました。

これが「国際社交場」と言われる所以だそうです。

そして、豚屋火事

しかしながら、居留地外国人にとって港崎町の遊廓は、それほど良い施設ではなかったようです。幕府の方から勝手に供給された環境であり、幕府と外国人双方で話し合って決めた結果ではないので、そう思われてしまったのかも知れません。

そもそも、横浜開港場は幕府の手によって、半ば不便な立地しようとする計画がありました。したがって、居留外国人にとっては不便この上ない街を何とかしようと、次々と改善策を要求してきました。

特に外国人居留地を広げることに関しては、1864年に次のような覚書が交わされていたようです。

  • 居留地を分ける堀より内側にある沼地(太田屋新田のこと)を、すべて埋め立てる
  • 現在沼地の中央にある港崎町は、沼地の埋め立てが完成したら、居留地より遥か遠くに移すこと
  • もし遊廓が消失するようなことがあっても、再建はしない

つまり、港崎町の遊廓が将来的になくなることが決まってしまったのです。やはり、港崎町の遊廓建造は、幕府の一方的な思い込みによるものだったのでしょう。

一体どういうことだったのかわかりませんが、その覚書に申し合わせたかのように、1866年11月26日、何と横浜開港場が大火に見舞われたのでした。

火元は日本人町・末広町(現在の太田町)の豚肉屋鉄五郎宅。炎はあれよあれよと日本の木造家屋を焼き払い、日本人町の三分の1、外国人居留地の四分の1を焼いてしまいました。

特に日本人町は木造建築が密集していたので、被害が大きくなったようです。

後世この大火事のことを、火元の豚肉屋から取って「豚屋火事」と呼ばれるようになりました。

被害が一番大きかったのは港崎町の遊廓。何と、全遊廓が全焼してしまいました。先ほど締結した覚書によって廃止する前提の町だったので、もしかしたら消火が後回しになったのかも知れません。

さらに運の悪いことに、港崎町への出入り口が大門一か所しかありませんでした。港崎町の周りは沼地で逃げ場がなく、おまけに町の四方が堀で囲まれてました。

そのため、外国人水兵がボートで遊廓の傍まで来て、逃げ場のない住民や客をロープを渡して救出したそうです。

ただそれでも多くを救い出すことが出来ず、400人以上もの遊女たちが逃げ遅れて焼死したとのこと。何とも悲しい話です。

ここまで読まれて気が付かれた方もいらっしゃるかも知れません。この大火、覚書を交わしてからわずか2年で発生しました。おまけに火元は、外国人に関係の深い肉屋さんです。

これ以上のことは申しませんが、火災の原因には諸説あるということだそうです。

そして、横浜公園の誕生

悲しい豚屋火事によって、「岩亀楼」をはじめとする遊廓は港崎町から撤退を余儀なくされ、覚書によって港崎町そのものが地上から姿を消すことになってしまいました。

さて、大火の後の街の復旧工事ですが、何度も大火に見舞わてる江戸の場合は、即座に元通りに建物を建てる復旧工事を行ってたようです。

しかし横浜の場合は、すぐに元の街への復旧工事が始まるということにはならなかったうです。居留地外国人からの強い申し出によって、何よりも防火対策が重要視され、居留地への延焼防止策が練られました。

そこで出てきた案が、

  • 港崎町の跡地には大きな洋式公園を造り
  • そこから港へ続く幅の広い大通りを造る

というものでした。

これがのちの「横浜公園」「日本大通り」になります。

そうやって、都市計画を練り直し、1864年の覚書を実現した後の横浜を表した地図がこれです。

改正横浜分見地図

改正横浜分見地図_部分(横浜市中央図書館所蔵)

今の横浜市の街並みにかなり近づきました。真ん中の緑が、前は港崎町だった、今の横浜公園です。まだ野球場はありません。

その「横浜公園」の真ん中あたりから真っすぐ真下に延びている道路が、今の「日本大通り」。

黄色く塗られている、図中左半分の市街地は外国人居留地で、残りの右半分の市街地は日本人町。ちょうど半分半分だったんですね。

今高速道路が走っているところは、昔は川だったんですね。地図では大岡川と描かれている。

今の石川町駅があるあたりには製鉄所があったようです。ふーん。

今の市庁舎のあるところは、その頃は単なる街区だったようですが、県庁や裁判所のあるところは相応の役所があったようです。

明治の当初から馬車道はあったんですね。

さて、港崎町跡地の公園に話を戻して。

今の横浜公園は当初「彼我公園」と呼ばれ、彼(居留地外国人)我(日本人)双方使える公園という目的になっていて、入場料も取らなかったそうです。

公園の設計は、英国人技師ブラントンさんをはじめとする外国人が中心になって行われました。従って、出来上がった公園は洋式公園の様相になってしまいました。

しかしながら洋式公園になじみのない日本人は、利用の方法がわからず、戸惑うばかり。結局最初は、公園管理は外国人クラブによって任され、ほとんど外国人が利用していたようです。

これだけ調べて、横浜公園の開港当時の歴史の一面を垣間見る事が出来ました。絢爛豪華な一面と、悲しさが織り交ざった一面があったんですね。

(おわり)

参考文献:
田中祥夫「ヨコハマ公園物語」中央公論新社、2000年
田村 明「都市ヨコハマ物語」時事通信社、1989年

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この記事の著者

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佐野 文彦博士

滋賀県で生まれ、学生時代を福井で過ごす。社会人になってからは、横浜を生活拠点としている。本業の傍ら、ジャズやゴスペル・ファンクなどでサックス演奏や、コーラスグループでの合唱活動も行っている。横浜が自分の歌や演奏で満ち溢れるといいなどと、大風呂敷な夢を持ち歩いている。彷徨うような街歩きが大好き。

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