象の鼻パーク
横浜市中区の観光名所「大桟橋」に寄り添うように造られているのが「象の鼻防波堤」で、そこを起点として、港の入り江を取り囲むようにして造られているのが「象の鼻パーク」です。
写真はまさに、「象の鼻」防波堤の上に立って撮影したものです。幅が広いです。
象の鼻パークは2009年の開港記念日6月2日に、横浜開港150周年を記念してオープンしました。観光的な側面は、この関内新聞でも何回も取り上げてますが、今回は歴史的側面から取り上げてみます。
開港から波止場が出来るまで
幕末の開港当初、象の鼻のところには今とは違った形状の波止場がありました。
地図中の「御運上所」が今の神奈川県庁にあたる場所なので、象の鼻パークと同じ場所に港自身があったこともわかります。
現在の象の鼻防波堤にある案内板にも書いてありましたが、
- 地図上向かって左(東側)の波止場は、外国船舶の貨物積み下ろし用
- 向かって右(西側)の波止場は、国内船舶の貨物積み下ろし用
として使用されていました。
あいにく横浜がもともと砂州上の村だったということから、港湾としての浚渫(しゅんせつ)が不十分だったため、外国の大型船が波止場に横づけできませんでした。
それにより、大型船は港の沖合に停泊させ、小型船に荷物を積み替えて波止場で積み下ろししたそうです。
しかし小型船は強風による高波の影響を受けやすく、よく積み下ろし作業が中断されることがありました。この使い勝手の悪い港を何とかできないか、という話も持ち上がっていたそうです。
その折1866年の豚屋火事が発生し、運上所や税関も被災したので、それらの復興を機会に防波堤を構築して、高波による積み下ろし作業の中断を避けようということになりました。そして翌1867年に、象の鼻の形をした防波堤を完成させました。
明治のころの横浜市の地図には、その様子が描かれています。
この地図は1878年に発行されたもので、これにはまだ「大波止場」と書かれています。
この左側の波止場が長く右に折れ曲がったおかげで、荒天時の高波を避けることが出来るようになり、荷物の積み下ろしの効率も格段に上がりました。
さらに32年経った、1910年に発行された地図では以下のように変わっています。
この地図では、象の鼻のところが「英吉利西波止場」という呼び名、すなわち「イギリス波止場」という名前になっています。
イギリス波止場があるんだったら、フランス波止場やドイツ波止場もあるのかなと思いましたら、ちょうど後世に「山下公園」が出来る場所に「仏蘭西波止場」、すなわちフランス波止場ができてました。
ただフランス波止場は、イギリス波止場と比べるとずいぶんコンパクトな形状ですね。
なお、イギリス波止場にくっつくように「鉄桟橋」が出来てます。これがのちの「大桟橋」に進化するのでしょう。
余談ですが、「イギリス波止場」「フランス波止場」があるのだったら「メリケン波止場」と呼ばれていたのはどこだったけ。という疑問が湧いてきますが、メリケン波止場は「大桟橋」に対する俗称で、1970年ごろまで呼ばれていたそうです。
イギリス波止場が関東大震災を経て…
さきほどの余談はさておき、この形状のイギリス波止場(象の鼻)およびフランス波止場は、大正時代以降も平和に過ごす予定でした。しかし、1923年9月1日の関東大震災で両波止場とも無残に損壊し、大規模に沈下してしまいました。
フランス波止場は損壊がひどかったのでしょう。復興されることなく、一帯が震災の瓦礫で埋められることになり、のちの山下公園になりました。イギリス波止場の方も損壊がひどかったのですが、こちらは何とか再建される方向になった模様です。
再建された後の横浜市の地図では、このように表示されています。
この地図は1929年に発行されたものですが、「イギリス波止場」という名前は「象の鼻」に変わってます。山下公園が造られてますね。
今の「象の鼻パーク」にあたるところには「税関第一分室」が建てられてます。象の鼻防波堤の形状が幾分スリムでまっすぐになった感じがします。
明治大正期に「イギリス波止場」と呼ばれた時期より、ますます機能的になった様子が読み取れます。機能優先の復興事業がなされたのでしょう。
そして日本は第二次世界大戦を迎え、横浜も大空襲を受けますが、戦後に発行された地図だと、このように表示されています。
これは1957年に発行された地図ですが、関東大震災後の「象の鼻」防波堤の形状については、かなり信頼できるものだと思います。残念ですが、明治のころの「ゾウさんの鼻」のような形状の防波堤ではないことがよくわかります。