2018年4月10日(火)

日本のフォークの先駆け、中川五郎が中華街でライブを開催

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ウディ・ガスリー、ボブ・ディランなどアメリカのフォークシンガーたちに影響を受けて歌い始めた日本のフォークソングのパイオニアのひとり、中川五郎さんのライブが、中華街で働く青年の企画で4月3日(火)に実現しました!

活動開始から50年の節目に解き放つ熱い歌声

中川五郎ライブ

1949年に大阪で生まれた中川五郎さんは、高校生の頃にアメリカのフォークソングに強い影響を受けて活動を開始。68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。

日本のフォークシンガーの第一人者であり、日本のフォークソングの草分け的存在として知られるようになりました。

70年代以降は洋楽曲の歌詞翻訳、音楽評論やエッセイなどの執筆が多くなり歌の世界から離れていましたが、90年代になってシンガーとしての活動を再開。横浜関内のライブハウス、ライブバーも幾度か訪れ、今年1月には寿町で開かれた「寿越冬新春お楽しみコンサート」にも出演しています。

中川五郎ライブ中川五郎ライブ

ステージは、若い頃から中川さんが敬愛する詩人の金子光晴の詩を歌にした「愛情60」続いて「愛情46」からスタート。女性や愛についての想いを切々と語りかけるように歌い始めました。

この日のライブは、客席とステージが一体となったホームパーティーのようなイベント。中川さんの演奏がしだいにヒートアップすると、会場全体が熱気を帯びてきます。

ニューヨーク出身のルー・リードの歌を訳した「ブルー・スカイ」、オリンピックをテーマにした「ピーター・ノーマンを知ってるかい?」と「Sport For Tomorrow」の2曲、さらにオリジナル曲の「どこまでも友に会いに行く」などを歌いあげて、中川さんは約1時間半におよぶステージを終了しました。

中川五郎にとっての「横浜の歌、横浜の音楽」とは

中川五郎ライブ中川五郎ライブ

ステージを終えて、赤ワインを飲みながらくつろぐ中川さんに横浜についての質問を。

横浜での思い出、印象に残るできごとはありますか?

「野毛にある『串焼きてっぽう』という店で歌ったことがあるんですけど、15年ほど前だったかな、その頃は野毛の先の大岡川沿いに行くと、夜の女性達が働く所がまだあって。町並みの独特の雰囲気が印象に残ってます。今は明るい街になって、きれいなカフェなんかがたくさん並んでますね。新しい街、若い人たちの店もいいなあって思いますよ」

横浜と聞いて思い浮かぶ歌は何ですか?

「それはもちろん『ブルーライト・ヨコハマ』ですよ(笑)、その世代だから。それは冗談として、横浜をいちばんイメージするのは、外国から日本にロックが入り始めた頃の横浜のロックなんです。60〜70年代の。当時も東京にはいろんなバンドがあっていろんなロックがあったけど、横浜のロックには違う魅力を感じました。それが何故なのかは、ぼくにはわかりません」

音楽都市・横浜のロックやジャズを楽しんでください

中川五郎ライブ中川五郎ライブ

今回のライブは、中華街の一角、市立みなと総合高等学校の裏手にあるイベントスペース「李世福のアトリエ」で行なわれました。オーナーの李世福さんは、知る人ぞ知る横浜ロックのレジェンドのひとり。

そして、この会場を利用してライブを企画した前田健人さん(左)と小梶洋介さん(右)。ふたりは、中川五郎さんのライブ開演前にオープニングアクトのステージを勤めました。

音楽好きの前田さんは、中華街の飲食店で働くかたわら、自分自身で感じている横浜の音楽をもっと発信したいとイベントを企画しています。

「世界には、シカゴやニューヨーク、リバプールなど音楽都市と呼ばれる街がありますが、横浜はそれらに負けない音楽都市です。ビートルズを世界に送り出し、ポップカルチャーの震源地だった1960年代のイギリス・ロンドンは『スウィンギング・ロンドン』と呼ばれていましたが、横浜は今もそれに匹敵するパワーと可能性を秘めていると思います。さまざまな国の文化がクロスオーバーする横浜では、文化の化学反応が起きて、新しい文化、新しい音楽が生まれます。そんな横浜のジャズやロックを、日本人としてぜひ楽しんでください」

横浜には、さまざまな文化が渾然となった不思議な魅力があります。スウィングする横浜から次はどんなカルチャーが生まれるのか、期待したいですね。

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保科政美

好物は麺類酒類全般。あまのじゃくなB型。大桟橋まで走って2時間、横浜奥地在住。いろいろな言語が聞こえてくる昼下がりの大通り公園で行き交う人を眺めているとロサンゼルスにいるような気がしてきます。

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