まずは調べてみよう
横浜公園の片隅に寂しくひっそりと佇む、「岩亀楼」の文字の入った石灯籠。
この場所にはかつて「国際社交場」があったのですが、どういう経緯で建てられ、また消えてしまったのか、資料のあるところへ赴いて調べてみる事にしました。
今はインターネットを使えば、大体の調査が可能です。しかし、深いところまで調べこむのは困難。
一方、横浜開港時の資料が豊富にある公共施設は、何といっても横浜開港資料館。横浜市中央図書館にも豊富な資料があります。
よって、インターネットで調査するポイントを絞ってから、これら2か所の施設の資料を調べ、横浜開港時の「国際社交場」のいきさつを調べることにしました。
遊廓が建てられたいきさつ
1859年7月1日(旧暦6月2日)に開港された横浜(今の関内)。しかし日米修好通商条約を締結したハリスは、本当は神奈川宿付近(今の京急神奈川駅付近)を主張していたとのこと。
そのようなハリス側居留地外国人には、横浜の地を満足してもらわないといけない。そのためには、横浜の地もしっかり繁栄してもらわないといけない。
横浜を反映させるには、江戸などの商人たちに「横浜支店」を作ってもらい、経済的な活況を作り出さないといけない。
「横浜支店」を作ってもらうには、江戸などの商人たちに対して、喜んで横浜に移り住んでくれる【環境】を用意しないといけない。
その【環境】として幕府が発案したのは、遊廓。
当時の港町には、どこにも遊廓が存在しており、新しく築港した横浜にも遊廓を造れば、間違いなく商人たちはやってくる。同時に長崎のように外国人も接遇すれば、これはもう立派な「国際社交場」になる。
それらの思惑があり、幕府は遊廓の建設を進めたそうです。
ただし、幕府自らは遊廓なんてものを建設することはしませんでした。江戸時代でも民活事業が存在したので、外国奉行を通じて「民間から願いを出させて認可する」という方法で建設を進めたのです。
この計画には、北品川宿の旅籠「岩槻屋」佐吉と神奈川宿の旅籠屋善次郎を含む5名の共同事業で始まりました。
遊廓の形態は江戸の吉原、外国人への接待の仕方は長崎の丸山に倣って、建設が進められたそうです。
そして遊廓を建てる場所の地名は「港崎町(みよざきちょう)」と命名されました。
しかし港崎町を建設する予定地は、今では横浜公園なのですが、当時は太田屋新田という開墾地の一部で、辺り一面がゆるゆるの沼地でした。工事はその沼地を固め、遊廓を建てても傾かないようにしなければならなかったのです。
ゆるゆるの沼地を堅牢な建物用の土地にする工事は、当時としては難工事で、最初の5名の事業者は次々に脱落し、最後に残ったのは「岩槻屋」佐吉だけになりました。
そのため、当初この工事は開港の7月1日に間に合わせる予定だったのですが、土台無理な計画であった上に、事業者の脱落というトラブルが続いて、港崎町が開業できたのは予定より5か月以上遅れの11月11日だったそうです。
ただ幕府の方は開業を手をこまねいてひたすら待っていたわけではなく、仮遊廓を何と運上所(税関)の近く、ちょうど玉楠木(開港資料館)の裏手に作ってたそうです。
どこまでもちゃっかりしてるというか…
これが開港した時の地図です。
仮開業した遊廓の場所は、図中真ん中下にある「御運上所」左側にあったそうです。図中の黄色で書かれた区画は「外国人居留地」。仮の遊廓は本当に目と鼻の先にあったんですね。
話を戻して港崎町ですが、図中真ん中上部の、大きな四角で囲まれた区域です。江戸の吉原のように、区域の外周は堀に囲まれ、右中の大門からしか出入りができないようになっています。
面白いところは、図中の下半分の区域には、通りの名前と運上所などの重要施設以外は空白なのに対し、港崎町の中は、ほぼすべての建物に名前が振られています。
つまりそれだけ、開港した新興都市「横浜」に鳴り物入りで登場した遊廓街(花街)港崎町が、世間一般の注目を大きく浴びた「一大観光地」だったのでしょう。
絵で見る開港当時の横浜
先述の通り、遊廓街である港崎町を建設する工事は、予定より5か月も遅れる難工事となり、11月にようやく日の目をみました。
工事の事業主だった佐吉は、その褒章として
- 港崎町全体の名主となる
- 港崎町で最大規模の遊廓「岩亀楼」の主人となる
を頂きました。
開港当時の横浜を描いた錦絵(浮世絵)を「横浜絵」と言いますが、横浜全体を俯瞰した錦絵があります。
この浮世絵を読み解くと
- 絵の右側は、元からあった砂州をベースにした、比較的堅牢な地盤の街がある
- 右側手前には幕府の運上所などの役所や、外国人居留地の一部が描かれている(これみよがしに米国旗)
- 図の中央上は日本人町。ちょうど今の関内の本町通りを挟んで、右は海岸通りから左は弁天通りまでできている
- 日本人町の奥の方には弁天社がある。今の弁天通りの由来はここへの門前通りから来ているとのこと
- 図中左下が、港崎町。他と一線を画した色合いで描かれている。如何にも花街
- 花街へ通じる道は、沼地のなかの一本道で、両脇を町家で固められている
という感じになります。これを見ますと、港崎町の様子を拡大したくなりますよね。
はい、拡大しました。
「岩亀楼」、しっかり描かれてますね。
一方、地図の方には大門の反対側に「金毘羅社」があったんですけど、描かれてませんね。たぶん昔の「ナイトスポット」を紹介するつもりだったのでしょう。描き忘れたのかも知れません。
やはり、港崎町は吉原同様、区域の四方を堀で囲み、遊女が簡単に逃げ出せないように作られてます。(これが後述の悲しい話になるのですが)
最も豪華なのは「岩亀楼」なのですが、他にも「五十鈴楼」「金石楼」「金浦楼」などいくつも楼閣があったようです。
文献によると、高級な楼閣は18軒、下級な売春小屋のようなところは84軒。遊女は最盛期には1400人もいたそうです。
何とも華やかに描かれてますが、ある意味「大人のワンダーランド」だったんですね。当時の遊廓は。